ウーマンラッシュアワーの漫才はなぜあんなにウケるのか

 ウーマンラッシュアワーの漫才はウケる。THE MANZAIでは予選で敗退したがウケの量で言ったら相当な上位であったであろう。また、島田紳助がその漫才を評価したりと、非常に評価が高い。
 その理由は例えば「両方がボケとなっている」という構造であったり、バイトリーダー等のあるあるの着眼点であったりと言われているが、今回はもう少し違う点から考えてみる。
 立川談志や、プレゼンを得意とする経営者などがよく使用する手法として「わざと小さい声で話す」というものがある。わざと小さい声で話すことによって、集中しなくては聞き取れない状況にする。そのため、嫌でも集中してしまう。集中すればするほど相手は大きく感情移入することができるし、深い意味も伝わるようになる。集中を向けた対象が発した意味について、深く考えるようになるからだ。
 エンターテイメントというものは相手の集中度が非常に重要で、例えば、ストーリーに解き明かされない謎を残すのも視聴者の集中状態を保つためである。視聴者がキャラクターに感情移入するという行為は、そのキャラクターに集中していることと同義だ。解き明かされない謎のある物語、キャラクターに感情できた物語、どちらも非常に大きな感動を生む。これは集中がもたらす効果である。
 それはもちろんお笑いにも当てはまることだ。立川談志がその手法を使うということからもそれは明らかである。他にも、漫才でのリズム感よくテンポを付ける手法、ボケを言う前に一瞬ためる手法、歌ネタでメロディに乗せることで退屈を産まない手法、など、どれもが視聴者の集中を誘う手法だ。
 そしてウーマンラッシュアワーの漫才なのだが、実はその手法が非常に有効に使われているのだ。使われている場所というがあのウーマンラッシュアワーの一番の特徴である「早口」の部分である。
 立川談志は「わざと小さい声で話す」ことで「集中しないと聞き取れない」状態にしたのだが、ウーマンラッシュアワーは「わざと異常に早口でしゃべる」ことで「集中しないと聞き取れない」状態にしたのである。それによって、あの早口の部分に異常な集中を強制しているのである。先に述べたとおり、集中というのはエンターテイメントを増幅する作用を持つ。それによって笑いが増幅される。
 ボケの部分というのはもっとも集中して欲しいポイントだ。そこに異常な集中を強制することができているのだから、有利に働くに決まっている。
 さらに、それだけではない。「わざと小さい声で話す」と「わざと異常に早口でしゃべる」で大きく違う所が、時間に対する情報量だ。「わざと異常に早口でしゃべる」手法は、短時間に大量の情報を詰め込むことができるのだ。
 笑いはいかに多くの情報を詰め込むかという勝負でもある。フリをたっぷり効かせてボケるのは、そのフリの内容をボケの内容に込めることで情報量を増やすためであるし、あるあるネタの利点は、みんなが過去に体験したことを思い出させることで、その記憶を情報として詰め込むことにある。情報を増やすことは笑いを増幅するのだ。
 あの圧倒的なスピードでの早口で詰め込める情報量は、他の芸人と比べて確実に多い。そのため、情報量の点でも有利になっている。
 そのため、あの早口でのボケは、大量の情報をものすごいスピードで流しこみ、さらにその大量の情報を異常な集中力で理解させる、という構造になっているのだ
 つまり、「わざと異常に早口でしゃべる」手法は、「集中の強制」「情報量の増幅」という、笑いを増やすのに非常に重要な2点を、同時かつ効率的に実践することができている合理的な手法なのである。

笑いの四分法 「大喜利」「言語学」「文学」「演劇」

漠然とした話だけど、笑いの手法・方向性を突き詰めると「大喜利」「言語学」「文学」「演劇」の四つになると思う。例を出すと、バカリズムジャルジャル大喜利言語学鳥居みゆき言語学・文学、バナナマンやロッチは文学・演劇、友近が演劇特化、しずるが言語学・演劇みたいな感じ。
2011/2/25 Twitterにて

 上記のツイートを数ヶ月前にしたところ、非常に反響があった。これについては色々と思うところがあったのだが、Twitterの仕様上140字しか書けず、非常に漠然とした話になっている。そのため、時間が立った今更ではあるが、これについてもう少し鮮明な考えを述べたいと思う。
 この四分法は、笑いを綺麗に四つに分けることが出来る、といったタイプの学術的なものではなく、考察したり語ったりする際にこういう風に分けると直感的ですよ、という、便宜的なものだ。ある程度曖昧な分け方であるが、それは曖昧であって劣っているということではない。そういった性質であるというだけだ。むしろ、ある程度曖昧な方が実用的であるとすら言えるであろう。生物を分ける際に、イヌ科、ネコ科などと分けるのではなく、穏和、獰猛、俊敏などと分けるのと近い。そのため、完全に独立した四つではなく、それぞれが重なるところもある。図で表すならば、こういった具合だ。

 この右図である。
 では、この四つそれぞれがいったいどのようなものなのか、というところを解説していきたいと思う。


大喜利

 これは、まず大雑把に定義するならば、「発想を飛ばす距離を追求する」という方法論だ。
 冒頭の引用部にあるように、バカリズムジャルジャルが例として挙げられる。他に分かりやすい例を挙げるならば笑い飯の漫才、中山功太のピンネタなどが挙げられる。また、大喜利という名前から分かるように、最も代表的かつ分かりやすい例は、IPPONグランプリなどの大喜利競技である。
 例えば、「あったら嫌な運動会」というお題があったとき、リレーに着目するか、綱引きに着目するか、順位のフラッグに着目するか、来賓のテントに着目するか。その着目したものから、どれだけ発想を飛ばせるか。順位のフラッグに着目したとしたとき、そこからビーチフラッグスを連想するか、「人がたくさん並んでいる」という事実を別の視点から見るか、マリオのゴールの旗を連想するか。またはもっと「そもそも」の段階、「っていうか、運動会ってなによ?」という所から発想を飛ばすか。そのような発想の幅、質を追求すると、この「大喜利」の方法論になる。
 つまり、一つのお題、フリから発想の幅と質を高め、どれだけ視聴側の予想を裏切れるか というところを追求する方法論である。
 IPPONグランプリなどの大喜利競技、ボケノートなどのネット大喜利の回答をみると分かりやすいかもしれない。ただ、競技、演芸としての大喜利と、ここで解説している方法論としての「大喜利」は別のものであり、演芸としての大喜利の回答の中には「言語学」「文学」「演劇」の要素が強い回答もあるということを留意しておいてもらいたい。
 この方法論を活用するのに長けている芸人がいわゆる「天才型」と呼ばれていたり、「この能力が高い=芸人としての真の力がある」といった風潮も見られたりと、非常に重要視されることが多い方法論である。
 ただ、その重要視の根拠の一つには、この能力は先天的なものであり後天的にはなかなか身につかないという妄信もあり、実際はトライ&エラーを繰り返す努力によってある程度までは身に付く能力であるため、重要視しすぎるのは疑わしいという事実もある。
 しかし実際この能力は、「人の考え付かないことを思いつく」「さまざまな角度から物事を見れる」「固定概念を突破できる」というような、お笑いに限らない「頭がいい人」としての能力が必要であるため、重要視されることもあながち間違いとは言えないのもまた事実である。
 上記の図を見てもらいたいのだが、「言語学」と交わってる範囲が広い。これは、この「大喜利」は、「言語学」と性質が似通っているからそのように描いたものだ。同じように「文学」と「演劇」がお互いに似通っているのだが、まず次は、今解説した「大喜利」と似通っている「言語学」について解説していこう。

言語学

 はじめはこれも同じように、大雑把な定義からはじめる。これは、「言葉の新たな可能性を模索する」という方法論だ。
 冒頭の引用部で挙げた芸人だと、バカリズムジャルジャル鳥居みゆき、しずるがそれに当たる。
 具体的にネタを取り上げて、言語への挑戦について分析している記事『バカリズムの笑いの本質は「破壊」』を過去に書いているため、そちらを参考にしていただくとより詳細なところがつかめると思うのだが、ここでも繰り返し解説していく。
 冒頭の例で挙げた芸人7組のうち、過半数である4組がこれに当てはまった。「大喜利」のときと比べて非常に多い。これは偶然ではない。「言語学」は、四分法の中で最も新しく生まれたもので、悪く言えば歴史が浅い。よく言えば最先端である。そのため、新しいことを追求するのに意欲的な芸人はこれを好んで扱う傾向にある。そして、冒頭の例では、新しいことに意欲的な芸人を意図的に選んで挙げていた。そのため、過半数が当てはまったのである。実際は、芸人全体で「言語学」を追及している芸人は少数派になるはずだ。
 では、具体的に解説していく。
 代表的な例では、新たな形容詞、動詞を作る、という手法がこれに当たる。あまりチーズの味がしないものに対して「チーズチーズしていない」という言い方をしたり、ティッシュを使うことを「ティッシュる」という動詞に変えて「ティッシュればいいじゃん」という言い方をしたりする。
 また、一つの言葉の「言葉自体、音」だけを残して「意味」の部分を何でもありにする手法もこれに当たる。先ほど挙げた記事の「YOIDEWANAIKA!」の例や、こちらのTogetterまとめ「suzukosukeの冗長な退社」などがその手法の分かりやすい例だろうか。
「YOIDEWANAIKA!」の例で言うと、 

「よいではないかよいではないか」
「よいではないかと言っておるではないか」
「わしの言うことに耳を傾けてもよいではないか」

と同じ言葉が多用されていき、

「髪を切ってよかったではないか」
「それは尿意ではないか?」
「位置について、よーい、ではないか!」

 といった具合に意味が変幻自在になっていく。
 このように、既存の文法や言葉のルールを相対化し、再構築することで、今まで言葉では不能だった領域を表現する、これが「言語学」の方法論である。
 先ほど軽く触れたように、この方法論は四分法の中で最先端と呼べるものである。そのあたりについてはここでは触れないため、興味のある人は過去記事「お笑いと音楽は意味の開放へと向かっている」を参照して欲しい。
 では、次は「文学」について解説していく。

【文学】

 今までと同じく、まずは大雑把な定義。これは、「深い心情などの心の機微や、人間そのものを描く」という方法論だ。
 冒頭で挙げた例だとバナナマンやロッチがそれに当たる。他に挙げるならさまぁ〜ずのコントの一部、松本人志Visualbum、落語、などがある。
 これもまた過去記事を参照していただくと分かりやすいので、挙げておく。松本人志の映像作品、VISUALBUM評論「VISUALBUMは、落語だ」ともう一つ、「レベルの高い笑い」鑑賞講座。お笑い観を変える2つのポイント。に書いてある「気持ちを察する」の項である。いちいちリンクへ飛ぶのがかったるい人のためにここでももちろん解説する。
 この方法論の代表例は、松本人志がよく言っている「おもろうて、やがて哀し」の笑いである。自分の息子が見ている前では格好付けたい父親だが、殴られるのは痛くて嫌なので、乱暴な人相手にはつい卑屈な態度をとってしまったり、それともやっぱり格好付けようとしたり……という姿が描かれるコント「カッパの親子」などがその最たる例だ。人間の「格好付けたい」「楽なほうへ逃げたい」「悪いことをやりたい」この辺の欲を描き、その哀しさを笑いに変えるというものだ。立川談志の落語論、「人間の業の肯定」にも近いものがある。
 もう一つの代表例が、気持ちを察して笑いに変えるというものである。「おもろうて、やがて哀し」の笑いと似通う部分もあるが、こちらはもっと広い意味だ。これに関しては、例を出すのが非常に難しいため、先にあげた過去記事からの引用をもって解説としようと思う。

 例えば、かなり昔のリンカーンの企画の、「さまぁ〜ず大竹の誕生日をUSJで大々的にパーレドをして祝う」というもの。大竹はパレードのでかい車の先頭に乗せられ、オリジナル誕生日ソングが流れる中、パレードをしてもらうという状態だ。これの一番分かりやすい笑いどころは、「誕生日だからって大々的にやりすぎだろ!」ってところや、「大竹の表情」である。しかし、これに「気持ちを察する笑い」という鑑賞のポイントを用いるとどうなるか。
 それによって生まれる笑いどころは、「大竹、こんなにすげえ祝われて、うれしいっちゃうれしいけど、ここまでしてもらうことじゃないし、恥ずかしい感じもあるだろうに。しかも、こんな大勢が見てる中を連れまわされて……、微妙な心持ちなんだろうなあ」これを察することによって生まれる部分である。

 このような、言葉にしづらいような絶妙に微妙な気持ちを察することで笑いを生むというもののである。
「文学」の方法論はこの二つによって成立しているものを指す。
 松本人志がこの笑いを非常に重要視していたり、立川談志がこれを落語の極意としていたことがあったりと*1、笑いの巨人達に愛される方法論である。「言語学」を最先端のエレクトロ・ミュージックとしたとき、「文学」は長く愛されるフォーク・ミュージックといったところであろうか。

【演劇】

 おなじみ大雑把な定義から。「リアリティのあるプロットと演技にとことんこだわる」という方法論だ。
 冒頭で挙げた例だと、特に友近を「演劇特化」として挙げている。他には先ほど「文学」でも挙げた松本人志Visualbumバナナマン、ロッチ、しずるのコントがこれに当たる。また、ここで挙げたものをみると分かるように「演劇」と「文学」はセットになっていることが非常に多い。この理由は後に説明する。
 いわゆる「日常の中の日常」と「非日常の中の日常」がこれに当たる。「○○の中の"日常"」である。最終的には日常なのが重要だ。「リアリティ」と聞くと、非日常の時点でリアリティが無いのではないかと思うかもしれないが、そうではない。例を出して説明する。
 過去の大日本人の解説記事に書いてあることの繰り返しとなるが、大日本人という映画は「巨大化する男が巨大な怪物と戦う」という設定の映画だ。この時点でリアリティがないのでは、という考えもあるが、ここで言うリアリティはそうではない。初めに示される「巨大化する男が巨大な怪物と戦う」という世界の中で、リアリティがあるかどうか、ここが重要なのだ。
 例えば主人公は巨大化する際、服までは大きくならないため、あらかじめ巨大なパンツに股を通してから巨大化する。服まで巨大化するってのはおかしいでしょ、ということだ。巨大化する際に使われるのは、コンセント。コンセントで電気を流し込むことで巨大化する。変身ベルトなどではないところにリアリティがある。つまりそういったリアリティだ。
 今解説したのが大雑把な定義で述べたところの「リアリティのあるプロット」である。では、次は「リアリティのある演技」について説明していく。
 例えばしずるのコント。授業中に些細なことから二人が争うという筋書きなのだが、最後に片方が急にトイレに行きたくなる、というシーンがある。そういったシーンの場合、普通のコントだと「やば、トイレ行きたくなった……」のようなセリフを説明的に言う。しかし、しずるのコントの場合は、顔をしかめ、腹を押さえて「ト……」と一文字つぶやく程度しかしない。もしも実際現実でそういったことが起きた場合のリアリティに即しているのだ。
 つまり、「演劇」の方法論は、設定された世界のルールでの現実的なリアリティと、会話と行動のリアリティを追求するものである。
 リアリティの追求はお笑いに限ったことではなく、Jホラーで最重要とされている要素のひとつであるし、世界的映画監督の黒澤明は偏執狂的に細かいリアリティへのこだわりを見せていたことで有名だ。
 リアリティが生む効果は「感情移入の強化」に尽きる。感情移入は共感と一貫性によってもたらされるものである。そのため、現実と近いリアリティを持つ「演劇」の方法論は感情移入を猛烈に促進するのだ。また、ご都合主義が無いため途中で感情移入が醒めることも防いでいる。
 そして、感情移入がお笑いに生む効果、それは「気持ちを察する笑い」の強化である。登場人物の気持ちを察することで笑いを生むシステムなら、感情移入していればしているほど効果が強力になるのは疑う余地も無いだろう。これが先に述べた「演劇」と「文学」がセットになっていることが多い理由である。




 以上で四分法の解説は終わりである。これを使うとお笑いを鑑賞する際、語る際、分析する際、非常に見通しが良くなる。是非うまく活用して欲しい。

*1:現在では「イリュージョン」のほうに傾倒しているため過去完了形

お笑いと音楽は意味の開放へと向かっている

 あらゆる表現への価値の付け方には二種類ある。一つが、どこかの層への人気を基準に価値づけるとする経済的なもの。もう一つが「本質」と名付けたものを基準に価値づける芸術的なもの。前者にはある程度決まった分かりやすい基準がある。だから、幾分考えやすい。しかし、後者を考えるのはいつだって難しい。「本質」を紐解くには、歴史を参照したり、自分の奥深くへ問いかけたり、人間の本能を暴いたりする必要がある。それは心労の意味でも、単純作業量な意味でも、大変な作業だ。しかし、それが本質を探るというものである。
 歴史、自分、人間の本能、この3つが「本質」の中身を表すことのできる言葉であると考えているのだが、さて今回は、その本質を暴くための3つの言葉を使い、そこに音楽という補助線をひくことで、「お笑い」に隠れた「意味の開放」というものを導き出したい思っている。
 では、まずは補助線から。

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東京ポッド許可局VSラリー遠田氏、盗作論争の論点まとめ

事件詳細

http://www.voiceblog.jp/tokyo-pod/1261615.html
http://owa-writer.com/2010/11/post_23.html
http://owa-writer.com/2010/11/2_3.html
http://owa-writer.com/2010/11/3_1.html
「まとめ記事はついついわかった気分になって重要なことを見過ごしてしまいがち。できれば元のポッドキャストと書籍、ブログなどを見聞きしてください。」と東京ポッド許可局の方からツイートをいただいたので、時間のある方は上記アドレスを上からぜひ。



この色がラリー氏
この色が東京ポッド許可局

論点

手数論は果たして一般的な論であったのか?
「手数」という言葉は前々から使われていた
手数という観点から「実際に計測」し、それをM-1に当てはめている


実際に計測し、それをM-1に当てはめるということが、果たしてオリジナルなのか?
数えて当てはめるという程度ではオリジナルではない、自然の論理の流れだ
みんながうすうす思っていたことを実際に計測し、文字を起こす等の学術的なラッピングしたのが手柄だ、オリジナルだ


サイゾーの側が盗作を認めたというのはどうなのか?
盗作をしたという事実はサイゾーは認めていない
許可局担当のサイゾーの人が、盗作を認めた


松本人志についての記事のパクりはどうなのか?
手数論パクり騒動後、東京ポッド許可局を聞くのをやめたため、松本人志についてのポッドキャストが上がったときには、すでに聞いていなかった。
第一回からのリスナーだという話だったため、聞いて盗作したのでは?


ラリー遠田氏から届いた「東京ポッドの手数論に補足してまとめたので……」というメールの件は?
まだ続論なし
鹿島氏がツイッターにて、ラリー氏から「自分が東京ポッド許可局に影響を受けていることはまちがいないと思います」というメールが2年前届いていたとツイート


サンキュータツオ氏の「死んでくれって思っている」「断筆してほしい」発言の是非は?
まだ続論なし
まだ続論なし


ラリー氏が2008年M-1前の時点でナイツに対して手数という言葉を使って評していた件については?
手数という言葉はこのようによく使われるし、内容についてもそこまで重なっているとは思わない
手数という言葉ではなく、それをキッチリと計測している点が重要


水面下でラリー氏が「非があった件については謝罪する」とメールをしたという件については?
まだ続論なし
まだ続論なし

今回の件と関係なく、議論で問題にしてはいけない点

・ラリー氏の文章が面白いか、好きか嫌いか。
サンキュータツオ氏の文章が面白いか、好きか嫌いか。
・東京ポッド許可局のメンバーがお笑いとして面白いか。
・東京ポッド許可局のメンバーが賞レースでどうか、売れているか。
・ラリー氏、サンキュータツオ氏の学歴について。
ラリー氏の本や、東京ポッド許可局の本の売れ行き。


むしろ問題にしてはいけない点が重要。

「なぜ日本ではGoogleよりYahoo!のシェアが高かったのか」を自分なりに考えた。

今更だが、なぜ日本ではGoogleよりYahoo!のシェアが高かったのか? - teruyastarはかく語りき
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20101031/1288459532

 上記の記事で、非常に面白い現象について書いてある。引用するとこうだ。

Yahoo!Googleより人気の日本、なぜと頭をひねる − @IT
http://www.atmarkit.co.jp/news/200606/14/yahoo.html
「世界各国でGoogleのウェブ検索のシェアが高いが、
日本では圧倒的にYahoo!検索が強い。これは興味深い現象だ。
なぜかと聞かれても分からないが……」。
海外ではこの構図が一変する。
米国、英国、フランス、ドイツではGoogleの利用率がトップ。
Yahoo!の利用率は10〜20%台に過ぎない。
井上氏によると、Yahoo!は韓国、台湾など
日本以外のアジア諸国でも人気で、
Googleを上回るシェアを獲得している。
井上氏はYahoo!がローカル企業と組んで
コンテンツを充実させていることを説明し、
「なんでもそろうというポータル戦略が珍しくうまくいっている」と分析した。

 で、まあこれを読むとき自分なりに、下に書いてあるteruyastarさんなりの結論を見る前に、自分で「なぜか」を考えてみた。せっかくなのでここに記しておく。
 日本などのアジア諸国と、米国英国フランスドイツとの大きな違いは何だろう、と考えたときに、一番大きいのはこれでないかと思った。下である。


 これと、


 これ。そう、景観である。前者のアジア各国は実に「Yahoo!」ではないか。
 逆に、後者の欧米各国。実に「Google」ではないか。

 景観というものは幼少期から触れ続けるものである。外に出るたびに目にし、その中で育つのだから、その影響力というのは計り知れない。つまり、国民の人間性というものに大きく関わってくる。
 そして、アジア各国の景観、多数のビルが立ち並び、中にはいたるものが統一感なく、ある。それが求めている方向性は、おそらくこんな感じだ。

・いろいろなものをごちゃ混ぜにしたい
・統一感はそこまで求めない
・引き算方式というより、足し算方式
・美意識より利便性
・シンプルより多機能

 そして逆に欧米各国の景観。統一感のある建物が並び、統一感を感じるデザイン。それが求めている方向性は、おそらくこんな感じだ。

・遊び心やコンセプトを大事にしたい
・統一感を求める
・足し算方式よりも引き算方式
・利便性より美意識
・多機能よりシンプル

 これが、アジア各国と欧米各国の景観の違いだ。そして、これは「景観の違い」を挙げたはずなのに、そのままちょうどYahoo!Googleの違いに当てはまる。
 すなわち、景観の違いが国民性の違いを生み*1、そしてそれがそのままプラットホームサイトのシェアの違いへ結びついたのだ。
 先にも述べたように、景観というものは、幼少期から、しかも常に、しかも身近に、そして密接に関わっているものであるため、国民性というものと非常に密になる。
 ごちゃ混ぜ多機能志向のアジア各国がYahoo!を好み、美意識シンプル志向の欧米各国がGoogleを好む。非常に妥当な結果であるといえよう。
 景観を見ることで国民性を知り、それに合わせてサイトを作る、それが一つ、成功への道といえるのかもしれない。

*1:そもそも国民性がそうだから景観がああなったとも言えるが

松本人志のコントMHK、感想

 松本人志のコントMHKをみた。
 最近記事を更新していないしツイッターに感想書くにも長いしツイッターだとあまりネタバレしてはいけないみたいなのもあるしといろいろと重なってちょうど良いので、久々に感想記事みたいなものを書いてみようと思う。
 まず全体的な感想から言うと、かなり楽しめた。「おもしろくなかったらどうしよう」なんていう、よく考えたら妙な不安もあったが、それは杞憂だった。いやむしろ、仮におもしろくなかったとしても、それはそれでかまわないのだ。私などは、このように松本人志が何か腰を据えて作品を作るということになったとき、「おもしろいか否か」というところよりも「あの松本人志がどんなものを作るのか」という好奇心が先に来てしまうからだ。
 というかそもそも、松本人志が今回はずしたとしても過去の圧倒的な打率は覆らない。イチローが一番最近の試合で4打数1安打だとしてもイチローがすごいバッターであることには変わらないように。というような喩えを以前どこかで読んだが、まさにそのとおりだと思う。しかも、松本人志はまだまだ現役でバラエティーに出演しており、そこでのトークの発想力や視点がまだまだ一流のレベルを保っている*1ため、「衰えた」なんてのもてんでおかしい話である。
 と、自分のある種の信者的態度と呼ばれてもそれほど文句は言えないスタンスを明らかにした上で、感想を書いていきたいと思う。

感想

 松本以外の芸人が登場しないと聞き、期待していたが、期待通り全体として松本色が非常に強く、まずそこが非常にうれしいポイントであった。声に出して笑った箇所も非常に多く、単純に楽しめた。では、ここから個別感想。ニュースと幽霊シリーズについては書いてません。

ダイナミックアドベンチャー

 初っ端の通販のコントが、「明日かと思ってた」をやたらと主張するといういかにも松本らしいボケから始まった時点で、おもしろくなるなと非常に期待が持てた。そしてその後の「動詞と名詞があるからなんとなくわかる」というような言葉への気付き系のボケなども非常におもしろく松本らしい。ほかにも、「ハッピースティック(だっけ?)を右から三番目に刺してください」「右ってどっち?」というボケがあった後の、「RとLを滑り込ませる」というボケへの流れで、「RとL」を正しく滑り込ませた状態での「R」の方から三番目に、ハッピースティックが刺してあるようになっているという細かいこだわりなど、見所は非常に多い。

ビUFOアフター

 ビフォーアフターのパロディでも、そのような細かいおもしろいボケが多い。似顔絵の顔の色が肌色であったり、「トイレの近くに台所がある」のシーンで、まな板の上に緑色のブニブニしていそうな丸いものがたくさん乗っていたり、改装後の食事のシーンで食べているものの色もおかしい、などなど。そのような細かいボケだけではなく、「ボッコリ」に収納し、真ん中は机がせり上がるようにするという発想や、ライトセーバーのボケやおばあちゃんのほふく全身などの視覚的なおもしろさなども非常に秀逸。遺影が楽しそうな笑顔に変わっていたところや、仏壇の「チーン」を鳴らしてみちゃうところなんかも非常に笑った。

答辞

 最後のコント、答辞についてだが、これもおもしろいことはおもしろいのだが、少し物足りない部分もあった。言葉遊びを繰り返すという実に松本らしいネタであり、間違いなくおもしろいコントではあったのだが、その松本の遺伝子を受け継いでいるバカリズムらのネタと比べると、どうも「逆に」という言葉の壊し具合遊び具合が足りないのではと感じられた。だが、演技の感じを見る限り、おそらく6、7割はアドリブであろうから、実はそのあたりは正直しょうがない。なぜならその分、アドリブの力で、演技への感情の入れ方や、言い方のおもしろさが際立つからだ。序盤での妙に癖とおかしみのあるしゃべり方や、後半でのたたみかけ、突然の逆ギレや「新聞紙!」という叫びなど、半アドリブならではの憑依的な芸が際立つのだ。さらに、半アドリブ芸こそが松本人志のホームグラウンドであるため、これもまた非常に松本らしいコントであったといえよう。


 と、非常に楽しめる45分間であった。なんども声に出して笑えたってのがでかいなー。シリーズ化に期待です。

*1:しかも、手癖や技術ではない部分で