吉本興業の団体芸は、「究極の笑い」へのアプローチである

 吉本興業というのは、お笑いコアファンやブロガーなどからは、あまり評判がよくないように思える。特に最近、有吉などの反吉本芸人の台頭や、島田紳助の恫喝事件などが影響か、反吉本の勢いが増している。あの吉本興業の芸人が集まると行われる大筋が決まったミニコント、いわゆる「団体芸」に対しても、批判的意見をよく見かける。
 そういう私も、ツイッターなどでも書いたように、個人的趣味だけで言えば反対派なのだが、客観的に見ると、あの団体芸にはとてもおもしろい可能性が眠っていると思っている。
 今回は、その「可能性」とは一体何か、について解説していこうと思う。また、これは「吉本興業」だけでなく、吉本をだしにした「お笑い」そのものについての評論でもあるため、吉本に興味がない人も読んでもらえるとありがたい。
 まず、本題に入る前に、一つ考えて欲しいことがある。それは、「いままでで一番笑ったのはなんのときか?」である。実際の生活の中での事件やトークでもかまわないし、番組などのそれらでもかまわない。決まっただろうか?
 それを考えてみると、おそらくほとんどの人が番組などではなく、実生活の中の何かであったと思う。実際、回りの人間に聞いてみたところ、全員がそうだった。
 番組などは「おもしろいことをやっている人たち」を外から鑑賞しているという立場であるが、実生活の中のおもしろいことは、「おもしろい状況」を一緒になって体験しているという立場であるため、このような結果になると考えられる。理由は他にも考えられる。実生活の場合に共有している、多くの前提、価値観により、前フリが常にめちゃめちゃ効いている状態になる。それにより、前フリのふり幅がめちゃめちゃ大きくなることとなる。前フリというのは、笑いにおいて最も大切なものの一つであり、ボケの内容をどうするかよりも、前フリをどうするかを考えた方が有効な場面も多々ある。それくらい前フリは大事だ。その前フリがめちゃめちゃ効いているということだ。
 これらより、番組などのトークや、漫才などではなしえない笑いの質を実生活では生み出すことが出来るのだ。前提価値観の共有による巨大な前フリがあること、それを「鑑賞」するのではなく「体験」できる、これが実生活での笑いのすごさの理由であろう。
 そして、笑いの質(脳が発する「笑える」という信号の量とする)を最大限まで高めようと思ったら、いわば「究極の笑い」なるものを目指そうと思ったら、これらの要素は必須となる。前述の、いままでで一番笑ったとき、というのが大抵実生活の中の出来事であるということも、それを示している。
 ここで、「団体芸」の話に戻ろう。「団体芸」というのは現在、吉本の芸人たちの「実生活での笑い」を、そのままテレビで披露し、観客に「鑑賞」させている、という状態ともいえる。しかし、そうではない場合がある。
 吉本の団体芸は、観客に「鑑賞」させるのではなく、観客に「体験」させることができる可能性を持っている。
 お笑いを熱心に見ている人は、多くの団体芸を目にしている。それがどのような大筋で、何を合図にしているのか、知っている。しかし、それは熱心に見ている人だけであって、あまり見ない人は知らない。これによって、ある種の仲間意識、連帯感が生まれる。舞台にまで見に行っているような人などの場合、その連帯感というのはとんでもなく大きいものとなる。さらに、熱心な人には「この芸人さんはこんな人、あの人はあんな人」というような情報も多く入ってくる。最近は楽屋裏話のようなものが流行っているため、特にそうだ。それにより、その一部の観客はその芸人たちの輪に入ったような気分になる。
 これらの要素により、一部の観客は団体芸を「鑑賞」しているというよりも、「体験」しているという状態にかなり近くなる。そうなってくると、もちろんそれらの人にとっての笑いの質はとんでもなく上がる。このような視点から、吉本興業の団体芸は、「究極の笑い」へのアプローチであると述べたのである。
 これは吉本興業の芸人の層が厚く、仲間内でのノリが作られやすい状況であり、さらに、出ている芸人は吉本だらけという状況がまかり通るからこそ成立するものである。そうでなければ決して成功しない。
 その条件がそろわず成功しなかった例を挙げよう。それはゴッドタンの企画「団体芸サミット」で団体芸をつくり、その出来た団体芸をアメトークで披露しよう、ということになったときのアメトークでの話。
 「オペラリアクション」という団体芸があり、それはゴッドタンでの企画内では「これはおもしろい!」ということになっていた。しかし、それをいざアメトークで披露すると、司会の食いつきも悪く、客もイマイチの反応であった。司会が内輪に入っていなかったため、成立しなかったのだ。これは上記の「出ている芸人は○○だらけ」という条件がそろわなかった例だ。ちなみに、司会がどう取り扱うかによって内容が同じでも笑いは変わる、というのは「太田光の"漫才"論と現在のバラエティ」という記事で書いたとおりだ。司会もいい反応をし、さらにそれを観客に浸透させなければ観客を「体験」させることができない。
 それに対して、現在吉本興業は勢いを伸ばし、とんでもない規模になっている。このまま団体芸を追及していったとき、テレビを見ている人全てを「体験」させるような状況さえ生むかもしれない。そうなったとき、笑いの質はとんでもなく上がるのだ。
 このように、批判されがちな吉本の団体芸であるが、負の側面だけでなく立派な正の側面も持ち合わせている。これだけでなく、批判されがちなものの大抵に、いや、全てに正の側面はあるだろう。そのようなことを客観的に見て批評することはとても大切である。