バナナマン日村の演技が、なぜ役者の演技をも上回るのか

 以前、「笑う女優」という、「芸人のコントをドラマ化する」という番組が放送された。その中で、バナナマンのコントが日村主演、その他の役はほとんど役者というキャスティングでドラマ化された。そのとき、バナナマン日村の演技は、「ある一点で」他の役者を圧倒していた。
 それだけではない。普段のコントや、ゴッドタンでの企画「ヒム子」などのとき、バナナマン日村の演技というのは、「ある一点で」他の芸人の追随を許さないところがある*1
 では、そのある一点とは、いったい何か。
 それを明らかにするのに、「ドリームマッチ2010」で「日村・原西ペア」がネタを終えた後に原西が言っていたことを引用したいと思う。

(ネタを)やるたびに、変わるんですよ、言葉が。

 ネタをやるたびに言う言葉が変わる。ここがバナナマン日村の演技の本質であり、彼の演技が役者の演技をも上回る理由である。
 そもそも、「演技が下手」とは一体どういうことかというと、それは「セリフ臭さ」ようなものである。もちろん、そうではない要素もあるのだが、ここではそこにフォーカスを当てる。素人は、セリフを言うときにそのセリフをがんばって不自然にならないように言うが、やはりセリフ臭さが出てきてしまう。プロの役者は、そのセリフ臭さを消す技術がある。そして高い演技力の条件は、「セリフ臭さを消す技術」、ここが大きな要素となってくる。
 では、バナナマン日村にその技術があるのか、というと、あることにはあるのだろうが、プロの役者ほどではないであろう。そうなってくると、「え? 演技力はセリフ臭さを消す技術のことなんじゃないの? じゃあバナナマン日村は役者よりも演技が下手なんじゃん」と思われるかもしれないが、そうではない。バナナマン日村は、セリフ臭さを消す必要がないのだ。
 なぜなら、彼は演技をしていないからだ。
 ここでもう一度ドリームマッチ2010で原西が言った言葉を参照しよう。「ネタをやるたびに言う言葉が変わる」。これが何を意味するかというと、バナナマン日村は「決まったセリフを発している」わけではなく、「その場で考え、その場で言葉を発している」ということである。これは、「会話」の構造だ。
 相手が何かしてくる。それに対して言葉を発する。この繰り返しが、我々が普段日常的に行っている「会話」である。そして、バナナマン日村は、コントの中で、「会話」をしているのだ。
 日常の「会話」で、「セリフ臭さ」が出てくることなどありえない*2。なぜならそれはセリフではないのだから。
 同じように、バナナマン日村はコントの中で「会話」をしているのだから、「セリフ臭さ」が出てくることなどありえない。ゆえに、「セリフ臭さを消す技術」なんてなくてもいいのだ。そもそも「セリフ臭さ」が存在していないのだ。
 つまり、バナナマン日村の演技は、リアリティ、という点において他の役者、他の芸人を圧倒している。冒頭で繰り返し述べた「ある一点」とは「リアリティ」である。
 そして演技の「リアリティ」以外の側面、そこを後日、同じく「ドリームマッチ2010」の「日村・原西ペア」で語りたいと思っています。
 今回はここまで。

*1:バナナマン設楽の方が全体的には器用だが。

*2:しゃべり方が演劇チックな人とかはまた違う話。