「夢トーーク」が成立するのは日本のお笑いに対する水準が高いからだ

 アメトーークの今週の企画は「夢トーーク」という、芸人たちが自分が見た夢を喋るという企画だった。夢の話っていうのは基本的に危ない(すべりやすい)。「テレビのタブー」とか言われていたらしい。しかし、今回それにあえて挑戦してみる、といった企画だった。
 番組が始まると、オチも脈絡もない話をしたあとに「…っていう夢を見ました」で終わる(ある種のオチ)、というパターンが初っ端から炸裂し、宮迫も「え?今日すっとこんな感じ?」と不安をもらしていた。もちろん、内容だけでおもしろい話もあったが、半分以上が「…っていう夢を見ました」ありきの話だった。ここまでの文から判断すると、「こんなことじゃ良い企画にはならなかったんじゃないか?」と思うのが自然だろう。
 が、しかし、この企画はおもしろいものになっていた。客にもかなり受けていた。芸人たちもかなり笑っていた。これはなぜか?
 その理由は、「日本のお笑いの水準が高いから」に尽きる。
 オチも脈絡もない話、というのは、単純に考えるとおもしろくともなんともない、ただのどうでもいい話だ。しかし、これが笑いになる。通常ならばおかしいが、それが成立する。それは、日本人にはもう「何か話をするときは、オチがある話をする」という高水準な前提があるからだ。世間は「…っていう夢を見ました」に対して「なんじゃそりゃ!」=「いや、オチがないのかよ!」と思うだろう。それはすなわち「何か話をするときは、オチがある話をする」という高水準な前提を持っているということだ。この笑いは、「オチがない」ことを「オチ」にするという、ある種メタ的な、一週回った笑いといえる。バッファロー吾郎木村がやる「つまらないことをする」というボケと近いものがある。これらの一週回ったボケというのは、実は高水準なものなのだ。
 ちなみに、この「…っていう夢を見ました」に対する笑いを「すべり笑い」と勘違いする人がいそうだが、それとは別物だ。彼らは夢の話をするとき、すべっていない。「…っていう夢を見ました」がオチであり、そこで笑いを取っている。
 この、「オチがない」ことを「オチ」とすることを当たり前にしているのが大多数である(若年層限定かも)というのは、冷静に考えればすごいことである。一週回った笑いが、当たり前のように若い女性客に受け入れられ、人気テレビ番組で流される。こんな状況から考えると、日本の笑いはやっぱり世界的にすごいのかもしれない。