お笑いと音楽は意味の開放へと向かっている

 あらゆる表現への価値の付け方には二種類ある。一つが、どこかの層への人気を基準に価値づけるとする経済的なもの。もう一つが「本質」と名付けたものを基準に価値づける芸術的なもの。前者にはある程度決まった分かりやすい基準がある。だから、幾分考えやすい。しかし、後者を考えるのはいつだって難しい。「本質」を紐解くには、歴史を参照したり、自分の奥深くへ問いかけたり、人間の本能を暴いたりする必要がある。それは心労の意味でも、単純作業量な意味でも、大変な作業だ。しかし、それが本質を探るというものである。
 歴史、自分、人間の本能、この3つが「本質」の中身を表すことのできる言葉であると考えているのだが、さて今回は、その本質を暴くための3つの言葉を使い、そこに音楽という補助線をひくことで、「お笑い」に隠れた「意味の開放」というものを導き出したい思っている。
 では、まずは補助線から。


 音楽。音を使った表現、芸術。歴史は長く、コンピュータ技術の進化とともに自由度が上がっていった。その中で、さまざまな新しい技法や楽器が生まれていった。そしてこれからも生まれていくであろう。
 その新しい技法の中で、今回とりわけ取り上げたいのが「サンプリング」という技法である。サンプリングとは、自然音や街の音などを録音して自分の楽曲の中に入れること、また、他の楽曲の一部を切り取って自分の楽曲の中に入れること、この二つを指すものとする。
 サンプリングは、音楽に多くの貢献をした。一つは、既存の曲を切り刻んで曲を作れるようになったことによって、高級な録音機器が無くとも、ハイレベルな録音をしたかのような音を作れるようになったこと。もう一つは、楽器だけでなく、例えばセミの鳴き声、例えば電車の発車音など、さまざまな音を取り入れることによって、幅が増え、より表現者の表現したいことに忠実な音楽を作ることができるようになったこと。
 これは一見、便利になっただけ、幅が広まっただけなのだから、損は無い、と思われるかもしれない。5〜10の間でしか動けなかったものが3〜15まで動けるようになった、という状況なのであり、元の5〜10を内包しているため、デメリットは無い、と思われるかもしれない。しかし、そうではない。例えば、昔、こんないじわる問題があった。

太郎君が学校をズル休みしました。太郎君の家から学校までの道のりには、牛がモーと鳴いていて、ちょうちょが飛んでいます。さて、太郎君は何の病気でしょう?

 答えは「仮病」、回答者に「盲腸」と答えさせてやろうという問題。これは、「太郎君が学校をズル休みしました。さて、太郎君は何の病気でしょう?」であれば簡単だ。しかし、間に新しい情報が入っているからややこしくなり、「盲腸」という人が出てくる。これは、情報が増えた、つまり、5〜10が3〜15になったゆえに起こる混乱だ。こういうことが、音楽にも起こった。
 サンプリングという手法は、その「楽器以外を録音をする」という性質上、例えばセミの音であればそこに「セミの音」という意味が乗る。「ミーンミーン」という「音」だけでなく、そこに「夏に出る、木にくっついて鳴く虫」という意味が、意図せずとも、乗る。この「意味」の付属が幅が広まった点であり、混乱を生む点である。そして、同時多発的に、意味が勝手に付属してくるのではなく、意図的にセミの音に意味を持たせ、その意味によって「夏」を表現する、という者が出てきた。
 しかし、だ。それ以前、音楽というものには「意味」は乗っていなかったのだ。悲しみを表現するのもピアノやストリングスの旋律の「音」のみで表現してきたし、それが言葉を用いない音楽の強みであった。いや、もしかしたらほんの耳掻き1杯程度の意味は乗っていたかもしれないが、それは人間が言葉を用いるという時点で仕方の無いことだ。とにかく、音楽はそうやって、意味から開放された地点で、音の力で表現をしてきた。
 それが、サンプリングの出現によって、揺らいだのである。意味に頼りだした。サンプリングをする際には、ほぼ必ずといっていいほど意味を乗せるようになった。そこがまずかったのである。
 意味に頼ると、表現にブレが出るのだ。例えばセミの音を使ったとき、それを聞いた視聴者は頭にセミを浮かべるであろう。過去のセミに関する記憶を探るであろう。「意味」は「記憶」に依存するものであるからだ。意味に頼るとは記憶に頼るということだ。そして、記憶とは、各人全く違う。これはもう、ほんとうに全く、だ。
 そうなると、視聴者に伝わるその音楽の最終的なイメージ、これがブレるのだ。ここが大きい問題なのだ。
 クリティカルな表現をしようと思ったら、それこそ針の穴に糸を通すような作業になる。針の穴に糸を通すとき、手がガタガタ震えていたら、穴に糸なんて通しようが無いのだ。その震え、つまりイメージのブレををなくすことが必要なのだ。
 過去、意味に頼らず、音で勝負していたころならば、ブレは少ない。なぜなら、人間の先天的な部分に訴えかけているからだ。先天的な部分とはすなわち、記憶以外である。まあたしかに、この場合でも、そりゃあ多少ブレは出る。しかし、意味=記憶という100%後天的な部分に頼るよりは、ある程度共通したイメージを伝えることができる。それなのに、サンプリングの出現によって意味が台頭してきた。これが問題だったということだ。
 ここで、1つの記事を参照したいと思う。

だから、2009年末であるいま、口口口のフィールドレコーディングを指して、これは現場性を表現したアルバムだなどと単に言ってはいけない。我々は本当に注意深くあるべきで、ここではむしろ、ゼロ年代が現場性を重視したことに対する批評が行われていると見るべきである。つまり口口口は、録音されたものは本来、現場そのものと一致させられないというシンプルな事実に我々を立ち返らせようとする。彼らはフィールドレコーディングによって集められた音源を、すべて楽曲を構成する素材としてしか見ていない。そこにはソースが内包する空気感(現場性)やリスペクトの意識が重視された従来のサンプリングに対する意識と真逆であるかのようだ。
Hang Reviewers High / 口口口「everyday is a symphony」

 口口口というバンドが、この意味の台頭の問題*1に対して、音楽によって批評をしたことが書かれている。

彼らはソースを徹底的に切り刻み、別の意味づけを行い、別の文脈を作り上げることに躊躇しない。
ところが、口口口はそうすることで楽曲の現場性を否定するわけではない。彼らは電車の音によって東京という都市に生きることを、水の音によって温泉のレイドバック感を、卒業式の音によって青春の切なさを、全く豊かに表現している。
Hang Reviewers High / 口口口「everyday is a symphony」

 彼らは、卒業式の音を録音し、その卒業式の音を材料に、切り刻み、音程を変え、長さを変え、並び替えることで、新たな音を作り上げる。そして、その新たな音によって「青春の切なさ」を表現したのだ。つまり、意味に頼っている人ならば、「卒業式の音」をそのまま使い、「卒業式」という意味を乗せることで青春の切なさを表現するところを、切り刻み、意味を破壊し、「音」に変え、それによって青春の切なさを表現しているのだ。そういった意味で、これは音楽による音楽の批評なのである。


 そして、それはお笑いにも当てはまる。そもそも、お笑いは言葉に依存した表現だ。その時点で、意味に頼らざるを得ない。実際、お笑いが生まれてから今まで、常に意味に頼ってきたであろうと予測される。
 しかし、意味に頼ると、伝わるイメージにブレが出る、ということは先に述べたとおりだ。「意味」は「記憶」に依存し、記憶は、各人全く違うからである。よって、クリティカルな表現がしたいならば、意味から開放されるように動くという道が見える。
 とはいえ、それが唯一の道ではなく、そのブレを少なくし正確に伝える、逆にその道を極め巨大な意味を乗せる、などの道も考えられ、その道を進んで結果を出している芸人もたくさんいる。が、ここではそれについては触れない。
 では、意味から開放されるためにはどうすればいいか。まず、お笑いの大部分を握っている「言葉」というものは、「意味」を操るためのツールであるといってもいい。意味と密接なのだ。ゆえに、音楽よりも意味から開放されるのは難しい。では、どうすればいいのか、という話をするために、当ブログのバカリズムの笑いの本質は「破壊」を参照する。

バカリズムには「YOIDEWANAIKA!」というネタがある。これは殿様が女性が着ている着物の帯をつかみながら「よいではないかよいではないか」と言うところから始まり、

「よいではないかと言っておるではないか」
「わしの言うことに耳を傾けてもよいではないか」

と同じ言葉が多用されていき、

「髪を切ってよかったではないか」
「それは尿意ではないか?」
「位置について、よーい、ではないか!」

などと、どんどん言葉の意味がなくなっていく。「よいではないか」という言葉を「破壊」しているのだ。この中では、既に「よいではないか」は最初に言った「殿様が女性を誘い、説得する言葉」という意味は完全に破壊され尽くされている。それどころか、「よいではないか」という言葉に「意味」というものがなくなっている。「位置について、よーい、ではないか!」の例で、特にそれが顕著だ。

 例えばこれなんかが意味から開放されるための手法のいい例だ。考えてみると、上記の音楽の口口口がやっていることと非常に似通っていることが分かるであろう。両方とも、一つの素材を切り刻み、破壊することによって、そこから意味をなくし、改めて意味をなくした素材によって別の表現をする。バカリズムのそれは、言葉から意味を開放している*2。さらに、この例。

 バカリズムが破壊しているのは言語だけではない。R-1決勝で披露された「地理バカ先生」。北海道の記号を見せ、「掴むならこう」と、北海道を掴んでいる絵を見せ、それをさまざまな県で発展させていく。これは、「イメージ」すら破壊している。彼が北海道をつかんだ瞬間、脳に電撃が走らざるをえなかっただろう。その情景が、全く想像できないのだ。「北海道をつかむ」というのは、あの、バカリズムが提示したフリップに書かれているような現象ではない。巨大な手が現れ、北海道のあの部分にある全てがつぶされ、地響きと共に持ち上げられるということだ。しかし、「実際の北海道」と「地図に書いてある北海道」とは開きがある。後者は「北海道」を意味する「記号」なのである。彼はその「記号」である「北海道の形」のものに元々ある「日本の北にある北海道という都道府県」という「意味」を「破壊」し、「意味の無い形」にしているのだ。

 これも、同じく口口口がやっていることと非常に似通っている。口口口がやっているのは、音からの意味の開放、バカリズムがやっているのは言葉と絵からの意味の開放である。そしてどれもこれも、クリティカルな表現、つまり、針の穴に糸を通すような作業のとき、手の震えを止めるための作業である。

 このように、音楽、お笑いの最先端には両方とも「意味から開放されるための試み」があるということが分かるであろう。そしてこれは、お笑いと音楽だけでなく、他の様々なジャンルへも繋がっているのだ。

*1:参照元では「現場性を重視したこと」という言葉で語られている

*2:上記記事では意味を破壊と表現している