バカリズムの笑いの本質は「破壊」

 まずは結論から書こうと思う。
 「バカリズムの笑いの本質は、『破壊』である」。
 これについて説明する前に、まずはバカリズムという芸人の基礎部分から評論して行こう。普通の評論はいらないという人は、行間が開いてるところまですっとばしてもかまいません。
 バカリズムはプロ、ライトお笑いファン、コアお笑いファン、世間、どこに聞いても「あいつはおもしろい」と返ってくる、かなり評価の高い芸人である。しかし、私は違うと思う。いや、正確に言うと、「『おもしろい』とかそんな生易しいもんじゃねぇよ」といった感じだ。現在の高い評価なんて、まだまだ正当な評価とはいえない。それほどにバカリズムは凄い芸人だと私は評している。
 バカリズムのお笑い能力の根底にあるのは、まず「発想力」である。これは多くの人がそう認識していることであろう。たとえばミランカで配信中の「内村さまぁ〜ず」にバカリズムが出演したときの大喜利では、「こんなトイレは嫌だ」に対して「便器を開くと開いたところに貝柱が付いている」や「流すのが大と小ではなく、しょう油とソース」と答えたり、「こんな病院は嫌だ」に対して「キャッチコピーが『とにかく安い!』」や「スタンプカードが溜まると無料で手術が受けられる」、「病院がギプスの形」などと答え、さまぁ〜ずや内村には「本気のやつじゃねえか」「うまいなぁ」「切り口が凄い」「その発想はどこから」などと褒められる*1ほどの腕前だ。また、手元にないので具体例は出せないが、ラーメンズ小林と共著した「大喜利猿」では正直、小林の発想とは一線を画していた。
 そして、これもお笑いが好きな人なら結構認識している思われることだが、バカリズムは新しい形式のネタを作り出す名人だ。「贈るほどでもない言葉」、「○○官能小説」、「地理バカ先生」、「トツギーノ」これら全ては今からあなたもこの形式でネタを作ってくださいと言われたら、かなりの数の人間がそこそこのレベルまで作ることができる。この「バカリズムとラーメンズは、むしろ正反対の笑いだ」でも触れたように、「設定の時点でもう勝っている」のである。設定勝ちした新しい形式なんてものは、そうそう作り出せるものではない。それをいくつもポンポンと生み出すバカリズムという芸人は、本当に凄いのである。
 さらに、設定だけで勝っているのにもかかわらず、そこから持ち前の発想力と構成力を駆使し、さらに高い次元へとネタを持っていく。「地理バカ先生」では、県をつかむだけではなく、ギターのように持ったり、ついには他の県に紐をくっつけ、そこに引っ掛けてまた他の県を持ち上げたりもした。
 しかし、バカリズムの笑いの本質とはそこではない。「発想力」「形式の新しさ」「構成力」それだけでもかなりのもんだが、バカリズムの笑いというのは、実はもっと先鋭的なものだ。




 ここで最初に示した一文へ戻ろう。バカリズムの笑いの本質は、「破壊」である。
 これについては疑問符を抱く人も多いかもしれない。彼の芸風や性格のイメージは攻撃的な面をあまり感じさせないものだからであろう。
 これを説明するには「笑い」と「言語」についての理解があることを前提とせざるをえない。私が知る限りそのことを最も良く理解している文章が「七里の鼻の小皺」というブログの笑いの忌明けのためにというエントリーである。これをしっかりと理解しながら読めばかなりのレベルで「笑い」と「言語」について理解できるのであろうが、このエントリー、「言語」以外の話も多く含まれており、少々長く、読む時間がない人もあると思うので、「言語」についての説明を、言葉を引用しつつ、短く要約して書いておこうと思う。
 しゃべくり漫才は「演じていないかのようにして、その場で思いついたかのようにしてしゃべる(演技性を排除する)」ことこそが至高されてきたが、ダウンタウンが「ガキの使い」で本当に「その場で思いつい」て喋ったことで、漫才の進化は終わったというのが定説だった。演技性が完全に排除され、漫才が現代性に完全に追いついたのだ。しかし、実は進化は終わりではない。次の進化は、現代性から新しい笑いを物語るための方法を作り出すことだ。そしてそれが、笑いを物語る方法である「言語」への挑戦である。例えば松本人志は漫才の「クイズ」ネタで「花子さんがお風呂屋さんに行きました。さてどうでしょう?」と尋ねることで、言語によって、「今までの言語では応答不能な領域がある」ことを示した*2。つまり、現在の「笑いの進化」は「言語の進化」と密接に重なっているのである。
 前置きが長くなった。バカリズムの笑いの本質が「破壊」だということへの説明に入ろうと思う。
 バカリズムには「YOIDEWANAIKA!」というネタがある。これは殿様が女性が着ている着物の帯をつかみながら「よいではないかよいではないか」と言うところから始まり、

「よいではないかと言っておるではないか」
「わしの言うことに耳を傾けてもよいではないか」

と同じ言葉が多用されていき、

「髪を切ってよかったではないか」
「それは尿意ではないか?」
「位置について、よーい、ではないか!」

などと、どんどん言葉の意味がなくなっていく。「よいではないか」という言葉を「破壊」しているのだ。この中では、既に「よいではないか」は最初に言った「殿様が女性を誘い、説得する言葉」という意味は完全に破壊され尽くされている。それどころか、「よいではないか」という言葉に「意味」というものがなくなっている。「位置について、よーい、ではないか!」の例で、特にそれが顕著だ。意味がない、ただの「音」となっているのだ。意味を破壊し、音ににする、つまり「言語の破壊」である。タイトルがローマ字になっていることや、「よいで『は』ないか」の「は」がローマ字の「WA」になっていることから、「意味を破壊し、音でしかなくす」ということに、バカリズムは自覚的だろう。
 また、この「言語の破壊」は他のネタにも見られる。このエントリーで紹介した「野球官能小説」。官能小説の比喩を野球用語で言い換えるところから始まるネタ。「ほ〜ら、こんなにランナーが溜まっているよ?」という言葉責めをする、など。このネタの前半も「比喩の可能性」を示唆する傑作ではあるが、最も注目すべきは後半である。

「美佐子のドラフト会議に、自分の推定年俸をまつざかせた」
「たまらなくクロマティしく感じて」
「自分のダルビッシュを激しくゴメスした」

これらの表現。注目すべきポイントは「まつざかせた」「クロマティしく」「ゴメスした」という部分だ。「まつざかせる」「ゴメスする」というどんなことをするのか全く分からない新しい動詞。「クロマティしい」という意味不明な形容詞。これまでの言語の常識を完全に無視し、破壊してみせている。それどころか、言語の新しい可能性を我々に突きつけている。さらに大きなポイントが、これらの言葉は、意味は一見意味が全く分からないのだが、文脈で少しだけ意味が想像できないこともないことだ。この「想像の余地」こそがこのネタの笑いの大きなポイントとなっている。「笑いの進化」が「言語の進化」と密接に重なっている現在、この言語への追求はほぼバカリズムが「笑いの最先端」にいるというのと同義だ。ちなみに話はそれるが、既存の言語のルールに従って、その中で言語の可能性を追求している、破壊とは違うタイプの「言語の進化の最先端にいる芸人」として、鳥居みゆきを挙げておく。
 バカリズムが破壊しているのは言語だけではない。R-1決勝で披露された「地理バカ先生」。北海道の記号を見せ、「掴むならこう」と、北海道を掴んでいる絵を見せ、それをさまざまな県で発展させていく。これは、「イメージ」すら破壊している。彼が北海道をつかんだ瞬間、脳に電撃が走らざるをえなかっただろう。その情景が、全く想像できないのだ。「北海道をつかむ」というのは、あの、バカリズムが提示したフリップに書かれているような現象ではない。巨大な手が現れ、北海道のあの部分にある全てがつぶされ、地響きと共に持ち上げられるということだ。しかし、「実際の北海道」と「地図に書いてある北海道」とは開きがある。後者は「北海道」を意味する「記号」なのである。彼はその「記号」である「北海道の形」のものに元々ある「日本の北にある北海道という都道府県」という「意味」を「破壊」し、「意味の無い形」にしているのだ*3。これは、「YOIDEWANAIKA!」で行った「意味を破壊し、音でしかなくす」と酷似している。「YOIDEWANAIKA!」では言葉をただの音にし、「地理バカ先生」ではイメージをただの形にしているのだ。双方共に共通するのは「意味の破壊」である。さらに、地理バカ先生では、意味を破壊した次の瞬間に、それを振り下ろしたり、滑車に乗せて滑らせることによって、新しい意味の想像の余地を与えているのだ。野球官能小説でも出てきた「想像の余地」というのは、最先端の笑いを語る上で欠かせないものだ。
 同時に、「イメージ」を「ただの形」にしたことで「北海道をつかむ」という現象を、人間は確固な想像をすることができなくなる。つまり、人間の「想像の余地」があるが、確固な想像ができない笑いなのである。元来、松本人志などが主張してきたのは「頭に絵が浮かぶ笑いはレベルが高い」というものだ。これは「ひとりごっつ」のDVDの副音声のコメントなどで言っている。しかし、バカリズムはそれを超えた「頭に絵を浮かべようとしても浮かべようがない笑い」、つまり「想像力を超えた笑い」なのである*4。この想像力を超えた笑い、というのは、「ミロのヴィーナス」の両腕が取れているからこそ、想像の余地があり、神秘的に美しい、という話とほぼ同じ仕組みであろう。
 想像が不能という話は、「野球官能小説」にも繋がってくる。先ほど挙げた「まつざかせる」「ゴメスする」「クロマティしい」という言葉は、人間の「想像の余地」があるが、確固な想像ができない笑いであるため、「想像力を超えた笑い」である。つまりこのネタは、言語を破壊し、新しい可能性を示唆した、想像力を超えた笑いという、実に最先端の笑いだったのだ。「下ネタ」というものは巧みに使えば最も破壊力が出るものでもあるという点も大きい。私はこれを今まで見た中で最もおもしろいネタと評したが、直感的におもしろいものというのは、論理的に紐解いていっても中身が伴っているものである。
 これらのこと全てにバカリズムが確信犯的*5であるとは限らない。なぜなら、笑いに関しての直感が鋭ければ、自然と最先端である「言葉とイメージの破壊」=「意味の破壊」や「想像力を超えた笑い」というものがおもしろく感じるものなため、ただ単に「自分がおもしろいと思うもの」を作った結果こうなったと考えてもなんら不自然はないからだ。
 温和なイメージが強いバカリズムだが、このように実際ふたを開けてみれば、彼の笑いというのは、時代の最先端をいった鋭い「破壊の笑い」なのだと分かる。彼がこれからもどんどんと笑いの進化を追求してくれることを確信しつつ、この評論を閉じさせてもらおうと思う。

*1:褒め殺し的なふざけた面もあるが、本音だろう

*2:松本人志は他にも言語への挑戦を行っているが、詳しくは上記エントリーを見て欲しい

*3:あの北海道の形の記号のある部分を指差し、「ここに人が住んでいる」と言われれば実際の北海道をリンクさせることができるが、つかまれた場合リンクさせることが不可能のため、意味は破壊される

*4:絵に浮かぶ笑いを褒めていた松本人志だが、実際彼は「想像力を超えた笑い」というものも、かなり意図的に使っている

*5:わざとの誤用