なぜM−1でオードリー春日が噛んだときに笑いが生まれたのか

 漫才中に演者が噛んだとき、いままで客の心に生まれてきたものは大半が「あ〜、もったいない」というような気持ちであった。だから、噛むことは許されなかった。
 しかし、春日は違った。噛んでからの突っ込みで笑いが生まれるならまだしも、噛んだ瞬間に笑いが生まれた。「噛む」ということが巨大なボケとなった。それはなぜか。
 大きな理由は、「春日という人物がボケている」のではなく「春日というものそのものがボケ」であるからだ。「キャラ芸」であるということに近い意味だ。
 キャラでもなんでもない人が噛んだ場合、客はその「噛んだ」という事実をそのまま直視する。一人の生身の人間が噛んだ、失敗したというように認識される。
 しかし、演じられたキャラが噛んだ場合、客は生身の人間が噛んだときよりも、一歩引いた目線で「噛んだ」という状況を認識する。生身の人間が噛んだのではないため、「決定的な失敗だ」というような認識にならない。
 また、予期せぬ失敗をすることで「キャラのまま維持できるか素になってしまうか」というようなスリルを味わうことができる。
 さらに特に春日の場合だが、「偉そうな勘違い上から目線キャラ」であり、実際にいたならばむかつかれるようなキャラだ。そんな性質を持っているため、失敗したときに「ざまあみろ」というような感情が生まれるのである。


 キャラのため、「決定的な失敗」と認識されず、「キャラのままか素に戻ってしまうか」というスリルがありつつ「ざまあみろ」という爽快感があった。故に春日のあの噛みはあれだけの笑いが起きたのである。