松本人志の映像作品、VISUALBUM評論「VISUALBUMは、落語だ」

 これまでお笑いブログをいくつもみてきたが、VISUALBUMについてしっかりとした解説や感想、評論を書いているブログは、あまりみたことがなかった。それは、「下手に書いて、自分の見る目がないと思われるのが怖い」だとか、「そもそも、理解していない」と言う部分が大いにあるのだろう。そこで、このブログで、評論してみようと思う。
 とはいえ、すべてのコントの評論をするのも冗長になりすぎるため、いくつかの、共通点を持つ、「松本人志」の笑いのかなり深い部分が現れているコントの、共通点の部分のみを解説していこうと思う。まだ視聴していない人は、先入観を受けないように、視聴してから読むことを薦める。
 松本人志は、昔から「落語」を多く体験して育っているらしく、その影響で漫才などを評価するときも「構成」をよく観察しているという。また、「桂枝雀さんのような、後世に残る作品を残したい」とラジオで語るなど、意外と知られていないが、彼の中での「落語」の重要度というのは、結構高い。
 そして、実は、彼の笑いのかなり深い部分には、「落語」の精神が根付いている。それが、今回のVISUALBUM評論のテーマだ。


 まず、VISUALBUMには「システムキッチン」というコントがある。このコントはアドリブによって作られているところが大きいという。そのため、これをただのフリートークだと言う人がいる。しかし、大筋や狙い、すなわち「キャラの設定」は元々決められている。それは浜田の台詞を見れば分かる。

松「どんなご希望ですか」
浜「二部屋ぐらいあったら嬉しいんですけどね」

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松「それじゃあいいですけどね、はい。家賃どれぐらいで、お探しになりますか。お一人で住みますか」
浜「んーまあ、ひとりかふたり、まあちょっとそのへんはねえ」

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浜「これ、あー。これ、風呂とトイレが別々になってるっていうタイプはないんですか」
松「なんでですか。お一人じゃないんですか」
浜「ま、ひとり、というか、ちょっとそのへんはあれなんですけども」

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浜「これ収納ですよね。こっちも収納ですか。あ、けっこうついてますね収納。あ、ええかもわかりませんね」

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 浜田扮するキャラは、「女を連れ込もうとしてるが、それを隠そうとしている」という設定がある。そして、「その隠しかたが下手だし、自分勝手」というような設定付けでもある。この「人間のアホな部分」といったところ、実は、松本のキャラ以外に、ここも笑いのポイントとなっているのだ。

 また、「マイクロフィルム」というコント。これはケツから何かが出てくるという設定や、何が出てくるか、とか、その辺も笑いのポイントになっているが、本筋は違う。このコントの本筋は、「頭の良いやつと悪いやつ」「人の欲の哀しさ、滑稽さ」である。東野と田中が演じる子分は、救いがないほどに自分勝手で、目的はマイクロフィルムを出すことなのに、ニンテンドー64のコントローラーが出てきたら目的を忘れて欲しがり、次殴るときは「64の本体出せや!」と言いながら殴るなどしている。また、板尾(役名はヤン)に「考えて殴れよ」といわれているのにもかかわらず、同じとこばかり同じように殴っている。その哀れさがおもしろく、笑いの本筋なのだ。
 また、ずっと子分が殴っていたが、板尾が殴り方を変えて殴ったとたん、子分が欲しがっていた64の本体が出る。ここで「頭の良いヤンと悪い子分」の対比ができ、おもしろさが際立つ。さらに、今まで「マイクロフィルムを出すことが目的なんだから、何が出たって関係ないでしょ」というスタンスだった松本演じるボスすらも「やっぱりヤンは殴るところが違うから良いものが出るのよ」と、少しテンションが上がってしまい、「マイクロフィルムを出すことが目的」ということを少し忘れている。この頭の良いという設定の人間ですら「人間の欲の哀れさ」みたいなものをちらつかせてしまっている。そして終盤、マイクロフィルムが出た後も一回だけ殴りたいと子分が言い出し、さらに子分が殴った後、松本が「ヤン、やりたいんでしょ?」というと板尾が「はい、正直」と答える。「頭の良いヤンと悪い子分」の対比ができているため、そんなヤンでも欲はあるという哀しさから来る笑いがそこにはある。さらに、最後にボスもさりげなく帽子を欲しがってしまう。
 そのような人間の欲といったものを、笑いに昇華しているのだ。

 さらに、「巨人殺人」。この作品は、これまでの挙げた「人間のアホさ」「欲の哀しさ」みたいなものの笑いが、最も強く表れている作品である。適当で楽観的な松本演じる関、すぐめんどくさい事はやめて「酒飲むかー」とか言い出す木村演じるアキ。殺すときに犬を連れてきて逃げられるなど、考えのない行動をとる今田演じる太一。みんながやるならやるし……というような、弱気で流されやすい板尾演じる稲葉。「お前らいつもこんなダメなんか」といったと思えば「お前らいつもこんなに楽しいんか。最高や」と言い出す、身勝手で一貫性のない東野演じるシン。キャラに確固な設定があり、それが貫かれていることでリアリティが増している。それぞれがそれぞれ「なにやってんだよ」というようなアホな行動を繰り返していく。しかも、誰もそれを強く咎めない。発展性のない同じ会話を繰り返したり、「おしゃれなこと」が一切通じなかったり、殺した後の隠しかたを考えてなく、雑になり、何度もやり直すことになったり。しかも、全然やりきってないのに、すぐに酒を飲んで騒ごうとする。楽な方へ逃げようとする。一度失敗したのにそこから何も学ばずに同じ過ちを繰り返す。この人間の哀しさ。そしてついにはテレビで殺人が明らかになってしまう。
 上記二つと同じく、「人間のアホさ」「欲の哀しさ」を笑いへ昇華している。
 この二つの特徴は、VISUALBUMの他のコントにも表れていることが多く、約半分のコントでこの二つの要素が重要となっている。VISUALBUMを語る上で、これらの要素ははずせない。これらを感じずに視聴していた人は、これを読んだ上でもう一度意識しながら視聴してみると良い。


 そして、これらの特徴は、実は落語の精神に通じているのだ。立川談志は落語を「人間の業の肯定」だと表している。「人間の業の肯定」とはすなわち、「楽をしたい」「悪いことをするなといわれてもやりたい」などの気持ちや視点を忘れないということだそうだ。「落語は逃げちゃった奴等が主人公なんだよ。人間、寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んぢゃいけないと分かっていても、ついつい飲んじゃう」とも言っている。この例なんか、巨人殺人にぴったりじゃないか。
 松本は、落語を見て育った故に、自然と自分の中に「人間の業の肯定」という「落語の精神」が根付いたのだろう。そこに観察眼や発想がくわわり、あれだけ深みのある笑いとなっているのだろう。