太田光の"漫才"論と現在のバラエティ

太田光の「ツッコミ芸人」論 - てれびのスキマ

 このエントリーを読んで一つ思い出したことがある。
 4月28日放送の「爆笑問題の日本の教養」にて、太田光は「漫才」についてこう語っていた。

(田中を指差して)こいつは本当はいらないんです。本当はね。
だけど、説明さすんです。
(自分を指して)こいつのどこがおもしろいのかってことを。
「そんなわけねえだろ」とか「それじゃ何々じゃねえか」みたいなことを、ツッコミは言うわけですよ。
そしたら客が、分かりやすいんですよね。

で、いってみりゃ、世間代表なんですけども、
(田中に向いて)「どうでもいい」んですよね。こいつは、「どうとでもなる」。
あのー、つまり、こいつが基準ですって言うお約束ですから、例えば俺が、
(話を聞いているデザインの先生を指差して)「先生カーネルサンダースみたいですよね」って言うとするじゃないですか。「川でおぼれませんでした」みたいに言うとするじゃないですか。
(田中を指して)こいつのツッコミ方によって俺がどの程度変なことを言っているのかが、変わるんですよね。
つまり、「確かに似てるけどあいつじゃねえよ」とか、「どう見ても人間だろ」って言うとか、それなりに、こいつの尺度で、俺がどの程度のボケかが、逆にだから、ボケっていうのは、ツッコミの言葉によってどの程度異常なこと言っているのか決めちゃえる、そうすると世間はどうとでもなるってことなんですよ。

 これは、同じボケでも、ツッコミによってその意味は全然変わってくるということだ。「○○に似ている」というボケは、「本当に似ているか」というところじゃなく、「それをツッコミがどう処理するか」というところによって、どうとでもなるということ。
 確かに、「○○に似ている」というボケに対してツッコミが「似てるけども!」と突っ込んだとき、ほんの若干でもそれに似ていたら、「似てないだろー」と思う人はかなり少数派になるだろう。


 そして、これは現在のバラエティにも当てはまる原理だ。何かのボケに対して、その番組全体のツッコミ役となるMCがどう処理するかによって、それが「おもしろい」か「つまらない」かが決まる。
 例えば、アメトーークで、おぎやはぎの小木がMC Hammerの「U Can't Touch This」に合わせて「ハイッ小木ですっ」と言うという、VTRが再生されたことがある。MCの雨上がり決死隊はこれを「腹立つわー」「おもしろいわー、何でおもろいんやろ」などと言うことで処理していた。すると、そのVTRはたちまち「おもしろい」ということにされ、客にもウケ、その番組内でもう一度再生されたり*1、もっと後の放送回でまた再生されたりした。
 しかし、もしもMCの雨上がり決死隊が「全然おもんないやん」「あかん、放送事故や!」などと、「これはつまらない」という風に処理していたら、そのVTRは「つまらない」ということにされ、客も笑わなかっただろうし、もう一度再生されることなどなかっただろう。
 現在のバラエティでは、そのようなことは多々ある。つまり、「本当に面白いことを言ったか」よりも「MC(ツッコミ)の人に、どう処理されたか」が大事になっている場面が多々あるということだ。

*1:うろ覚え