アメトークの過剰な演技性に感じる、細かいが重要な違和感

 アメトークという番組は基本的によく出来たものなのだが、たまにそこにある過剰な演技性に違和感を覚えることがある。その演技性は一概に悪と言えるものではないが、議論の余地があるよなーと思うもののため、ここに記しておく。以下詳細。
 私が感じる過剰な演技性というのは、アメトーク内で「○○ってなることあるよね」というような、その回のくくりの中のあるあるを披露した際、全員が「あ〜! はいはい! そうだね!」とリアクションをすることにある。
 例えば、「人見知り芸人」での一幕。NON STYLEの石田が言ったことにに対してライセンスの藤原が反応したというやりとり。

石田「楽屋挨拶するときも、まず、なんですけど、コンコンの大きさが分からないんです」
藤原「…わかるわかる!」
(一瞬遅れて「あー!」という声。ここで他の芸人もうなずくのがカメラに抜かれる。)

 遅れた間や内容から考えるに、藤原以外の芸人はそんなに「あー! わかる!」と思っていないが、とりあえず「わかる」という動きをしているのだろう。アメトークではこれと同じような、知ったかぶり的光景が、ちょくちょくと繰り広げられる。
 これは、「人見知り芸人というくくりなのだから、話を合わせよう」という、いわゆる「空気を読んだ」行動なのだろうが、ここに違和感を覚える。「出演者がみんな人見知りである、というリアリティ」が失われるように感じるからだ。
 まず、例えば、アメトークでの「ガンダム芸人」というくくりでは、「こいつらホントはガンダムそんな好きじゃないだろ」と思わせるような行動をしてしまっては、冷めてしまうのは分かるであろう。それは、リアリティが失われるからだ。
 同じように、アメトークでの「人見知り芸人」というくくりでも、「こいつらホントは人見知りじゃないだろ」と思わせるような行動をしてしまっては、冷めてしまう。そして、上記の「人見知り芸人というくくりなのだから、話を合わせよう」とすることは、冷めさせてしまう行動である。
 なぜなら、上記の引用部のように、人見知りの中にも個性があって、この「人見知りあるある」は分かるけど、こっちは分からない、というのがあってしかるべきだからだ。分かるものは分かる、分からないものは分からない、のはずなのだ。なのに、全て分かる、というような言動をする。そのような話を過剰にあわせる行動は、ある種「知ったかぶり」をしているように見え、それによって「おいおい、これホントかよ」と思われてしまうことになる。知ったかぶりほど偽者感を与えてしまうものはない。
 これが、私の感じる違和感の正体だ。「俺たち、みんな全く同じあるあるを共通してるってことな。そういう設定ね」というような演技性を感じてしまう。故に、冷めてしまう。
 これは、「ホントにこいつら人見知りか?」というように疑っているのではなく、「こいつらは本当に人見知りなんだろうな」と思いつつも、リアリティのない言動に冷めてしまうのだ。「こいつら本当に人見知りなんだろうけど、過剰に空気を読み、滑らかに進めるために動くせいで、人見知りを知ったかぶってる人みたいな動きになるんだろうなあ」という感じだ。
 逆に、最も自然に、知ったかぶらずに行動した場合は、誰かが披露したあるあるについて、「あー、それは俺にはないなあ」というようなスタンスを取る、といったような具合になる。これをすれば、全くリアリティを損なわずに、「ああ、この人たちは本物だ」というような印象を与えることが出来る*1
 しかし、そのような行動を取った芸人がいた場合、その芸人が司会の宮迫に「もー! そこは別に言わんでええやん! 黙ってそういうことにしとけばええやないか!」と言われるのが目に浮かぶし、確かにそれも一理ある。
 黙ってそういうことにしとけば、バラエティとして障害を少なく滑らかに進行させることに有利に働き、分かりやすい構成となる。プラスの面もある。
 しかし、私はリアリティを重視すべきだと考える。そのほうが本音で喋れるため、より核に迫ったトークが期待できるし、違和感を感じさせない、リアリティを出す、というのは、質を高める上で必須だと感じるからだ。

*1:[補足追記]この辺の話は、人見知り芸人に限らずです。