バナナマンのラジオの件について、自分なりに考察する。

バナナマン日村がマジ切れ、「俺は傷ついている」という悲痛な叫び
 話題にはなりそうとは思っていたけれど、ここまでなるとは正直思っていなかった。驚いている。ブコメでも、なかなかいろいろな意見が交わされているようで、興味深く読んでいる。
 まず、書き起こした本人はどう思っているのか、ということをしっかりと書いておくべきかなと思い、書くことにする。
 まず、あのプライベートを暴露するなどの、バラエティでの「いじり(いじめ)」に関しては、完全に「あり」だと思う。やってもかまわない。ただ、傷ついていて、心の中では納得できていない部分があるのだと自覚しつつ、それでもいじりをするべきだと考えている。だから、立場としては「いじり肯定派」となる。
 また、「書き起こしでは空気が伝わらない」という点に関しては、申し訳ないといわざるをえない。放送も随分前のもので、誰も書き起こしていない、しかし、現場の人間の「いじり論」「エンターテイメント論」というのはめったに聞けるものではなく、これは多くの人に知られるべき回であり、単純に楽しめる回でもある。その思いから書き起こさせてもらった。空気に関して補足するなら、ところどころスタッフの笑いも入るし、設楽のバランス感覚や日村の心の冷静な部分の力によって、決して重苦しい空気にはなっていなかったということは伝えておきたい。ブコメにもあったとおり、2009年03月16日のPodcastを聞いていただくのが空気を感じていただく一番の近道になると思う。また、できるならば書き起こした回も実際に聞いてもらいたい。日村の「声の出し方、言い方」にはすごいものがある。
 また、あれは「日村の暴走」の一言で片付けられるものではないということも大事であろう。日村は最後にこう言っていた。

すごく良い放送だったと思うんだよ今回。リスナーにとっても。良い放送だったと思うよ。そういう風に思ってる俺が実はいるってことを分かってもらいたかった。

 これは、今おもしろい回になってるなあと自覚しつつ、キレて怒鳴っていたということだ。エンターテイメントとしてショーをしていた自分がいたということ。では、これはあくまでショーでエンターテイメントでしかなくて完全なヤラセだったのか? というのはまた違う。
 自分の中で本気で怒りつつ、同時に番組を面白くして楽しませようとするという綱渡りをしていたのだ。だから、「偽者のキレ芸、台本」ではないし、逆に「完全ドキュメント」でもない。ある程度は本気で怒っていたし、またある程度はショーをしていた。そういうことだ。人はすぐヤラセかガチかの二元論で語りたがる。しかし、特にバラエティにおいては、完全なドキュメント、完全なヤラセというのはほとんどない。大抵のものがどちらの面も持ち合わせている。今回もそうだ。そのため、「深刻に考えるなよ。こんなのショーなんだから」という意見も、「これを笑うだ楽しむだ? こんな真剣な日村に失礼だ」という意見も不十分ではないだろうか。「ガチでもあり、芸でもある」なのだ。ゆえに、「このショーを楽しみ、笑いつつ、でも内容について考えるべきところはしっかりと考える」というスタンスでいるべきだろう。リスナーを楽しませたい日村、リスナーに考えてもらいたい日村、心には少しずつどちらもいるのだ。
 この「ヤラセとガチ」についてさらに言うなら、あの回があそこまでおもしろかったのは、「完全にガチになりすぎず、完全なヤラセでもなかったからこそ」であろう。例えば全然本当はキレていない状態でこのような放送をしたとしても、意見の強度が下がり、暴言へのリミッターが強くなる。故に、ここまでの迫力のある意見や言葉はでなかったであろう。逆に、我を忘れて「完全ガチ」になり、エンターテイメントにしなくてもいい、という心持ちなってくると、最後に多数決で決めるなんて展開はありえないだろうし、言葉のトゲや意見の暴力性が増しすぎて、どんどん痛々しくなっていき、とても放送に耐えうるものにはならないだろう。「完全にガチになりすぎず、完全なヤラセでもなかったからこそ」どちらにも転ばず、ギリギリで刺激的で考えさせられるエンターテイメントに仕上がったのだ。
 と、ここまでが私の意見だ。あの記事を読んでくれた人の中で、どのくらいこの記事を読んでくれるかは分からないが、ここに示しておこうと思う。