大日本人は本当に駄作か? 解説本にも載ってない3つの追求点から、深く冷静に分析する。

 大日本人松本人志初監督映画。興行的にはそこそこ成功したものの、一般的な人、映画評論筋、お笑い評論筋からの評価は、私の印象だと2:8くらいの割合で否定派が多い。要するに、評価の低い映画であるということだ。「松本信者だけど、これにはガッカリした」という意見すら見られるほどだ。
 この映画を評するときによく言われる言葉は、「よくわからない」。これだ。監督は何を狙ってこの映画を撮ったのか? どの層へ向けて? 何を追及している? ストーリーの意味は? いろいろと疑問はあるのかもしれない。なにせ、職業ライターである、おわライター疾走のラリー遠田氏にすら、映画『大日本人』はよくわからないと言わしめているのである。そして実際、インターネットでも雑誌などの書籍でも、「大日本人」についての深く納得のいく解説は、ひとつも見たことがない*1


 ここでは私の知る限り初めての「正確な大日本人評」を書きたいと思っている。


 ちなみに、ここでの評というのは、例えば「あれは北朝鮮を揶揄している、あれはアメリカだ」「最後の急なシーン展開が意味するのは云々」のような、表面を掬ったような部分への評ではなく、もう少し根本的な部分、特に「笑い」の部分への評となると思う。浅い評を読み飽きた、という人にこそ読んでもらいたい内容だ。
 また、大日本人を見たこともない人でも、「笑い」や、「創作」そのものへの言及が多いため、是非読んで欲しい。

ポイント1 リアリティの追求

 まず、あの映画を見てすぐに分かること、それは、ドキュメンタリータッチであり、つまりリアリティを追及しているということ。笑いだけでなく、多くのストーリー物にとって、リアリティというのは非常に大切なものである。まず、リアリティはそのまま世界観の完成度へ影響する。例えば主人公の大佐藤に密着しているという設定のカメラを通行人がちらちらと見るシーン。あれがあるだけで世界観にグッと説得力がでる。また、逆にセリフじみたセリフや、不自然なやり取り、不自然なものの動きがあるだけで、それに気づいた人はサッと醒めてしまう。それ以上その世界観へ没入できない。不自然さ、リアリティの無さは、笑いやプロットを展開する上で、非常に邪魔なノイズとなる。それを排除し、さらに徹底的な排除によって世界観の説得力を増しているのだ。
 ここでのリアリティというのは、現実に近ければ近いほど良いということではない。大日本人の設定は「巨大化する人間が獣(じゅう)と戦う」というのものである。これは現実離れしている。しかし、その設定をリアリティたっぷりに描いているのだ。例えば巨大化のシーン。巨大化するときに使うのは「変身ベルト」のようなものではなく「電気」。ここにリアリティがある。さらに、巨大化する前に、巨大なパンツに足を通しておく。「あくまで巨大化するのは人体だけで、服までは巨大化しない」というリアリティである。また、取材という設定で大佐藤と取材者が会話する多くのシーン。これも、ほぼアドリブで撮ることによって、会話内での言葉のやり取りに、セリフじみた不自然さが生まれない。ほぼ普段の会話みたいなものなのだから当然だ。噛んでもそのまま使っているというのもリアリティがある。全く噛まない方が不自然だからだ。他にも、落書きやカメラの映り込みなど、いたるところにリアリティを高めるディティールが仕込まれている。細かい小さなリアリティを積み重ねることで、それは大きなうねりを呼ぶこととなるのだ。

ポイント2 「静」の笑いの追及

 笑いというものにはいくつか分け方があるが、その分け方のひとつに「静」か「動」かというものがある。映画で具体的に言うと、「ホーム・アローン」「有頂天ホテル」などが「動」の笑いである。おもしろさと同時に楽しさもあるような、「ドタバタコメディ」的な作品がここでいう「動」の笑いだ。動の笑いの長点は、なんと言っても楽しいこと。そしてそれによって、間口が広いこと。
 逆に、静の笑いの長点は、上記の「リアリティの追求」と非常に相性がいいこと。それによって、邪魔なノイズをさらに排除できること。まず、動の笑いのプロットは、どうしてもご都合主義的な展開にならざるをえない。その理由はなにか。まず、ドタバタコメディ的な展開というのが既に、笑いの法則である「緊張と緩和」で言うところの「緩和」へ寄っている。常にだ。そのため、笑いを生むためには緩和寄りの状態からさらに緩和へと展開を振らなければならない。そこまで大きな緩和を生もうと思ったら、リアリティになどこだわってられない。ある程度ご都合主義的な展開が必要となる。よって、そこでリアリティが失われる。
 静の笑いの場合、そもそもの状況が常に「緊張」寄りである。よって、ご都合主義的にならなければならないほどの緩和を生む必要はなく、リアリティを保ったまま笑いを生むことが出来るのだ。これが、静の笑いとリアリティの相性が良い理由である。

   ■――――→□
緊張←――――――――――→緩和

        ■――――→□
緊張←――――――――――→緩和

 上が静の笑い。下が動の笑い。両方ともふり幅は同じだが、スタートが緊張側によっているほうが、リアリティを失わない程度の「おかしな状況」での緩和で十分となる。

ポイント3 分かりやすいボケの追求

 そして、実は、大日本人には分かりやすいボケというのが意外と多い。「よくわからない」と評されることが多いというのに、ボケの質は分かりやすいのだ。獣との戦闘のシーンなんて、その最たるものだろう。FUJIWARA原西の動きを模した獣、目を振り回したり戦いの途中で洗ったりする獣など。基本的には視覚的で分かりやすいボケが多い。
 松本は、公開以前、「かなりベタにしたつもり」「家族で見にいっても良い」のような発言を何度かしていた。その言葉の通り、確かにボケの質はベタだ。しかし、「よくわからない」という評価が相次いだ。これは、「大衆がこの程度の分かりやすいボケも理解できない」から、ではない。理由は他にある。
 まず、この分かりやすいボケ、というものに相性がいいのは「ご都合主義的展開」の「動の笑い」である。分かりやすいボケは、コミカルでご都合主義的なボケであることが多いからだ。逆に、分かりにくい笑い、というものは「リアリティ主義的展開」の「静の笑い」と相性が良い。分かりにくいボケは、シニカルでリアルなボケが多いからだ。
 そして、「よくわからない」という評価が相次いだ理由がここにある。

ポイントのまとめ

 その理由とは、「ポイント1、ポイント2」グループと、「ポイント3」の相性が悪いからである。リアリティのある静の笑いを追及していたのに、ボケだけが急に、それらと相性の悪い分かりやすさを追求してしまった。これによって、見る人にどこかチグハグな印象を与えてしまった。それによって、「よくわからない」という評価が相次いだのである。もし、このまま分かりにくい笑いの深さを追及していたら、もっとよい評価になっていただろう*2
 リアリティの追及も静の笑いの追及も、非常によく出来ていた。そして、「分かりやすいボケの質」自体もよく出来ていた。それらの素晴らしい素材同士を合わせてみたが、その相性が悪かった。食べあわせがよくなかった。それによって、せっかくの素材のよさが伝わらなかったのだ。
 さて、ここまでが私の大日本人評論である。
 また、こちらの「人間の四分類と、ぼくが『ラブプラス』にはまらない理由。 - Something Orange」という記事が、この記事のテーマの一部と共通している。こちらの方もあわせて読んでいただければ、より理解が深まるのではないかと思っている。
 これらのポイントを頭に入れて、もう一度大日本人を見てみると、よりクリアに大日本人という映画の全貌を掴むことが出来るであろう。

*1:探せばあるのかもしれないけどね。

*2:それがVISUALBUMなのであるが。