私たちの中にある「理想のM-1」は、終わってしまったのだろうか?

笑い飯による親(M-1)殺し - ロマンティックあげるよ。
 この熱い記事を読んで、やっぱりお笑い好きな人間としては、「M-1」について何かしら語りたいなあと思ったので、語ってみる。「笑い」に対する批評とかではない。ただ、M-1について語ります。主観だらけです。これは批評でもなんでもなくただのいち素人の「思ったこと」です。この記事を読んだ後か前に(できれば後)、『僕たちの中にある「理想のM-1」を、終わらせるわけにはいかない!』←こちらの記事もお読みください。*1。ちなみに、最終決戦の笑い飯敗退は主観でも妥当だと考えます。
 上記の記事にあるとおり、M-1は「コンテスト」だ。ハリセンボンが噛んだら、個人的におもしろくても噛んだということで大幅に減点しなくてはならないし、誰かの漫才で一度も笑えなくて、早く終わらないかなあと思っていても、技術力が高かったならば高得点をつけなければならない。それがコンテストにおける正当な「審査」だ。
 でも、やっぱり、審査員席に座っている彼らには、「審査」をしてもらいたくはない。だから、本当のところ、彼らのことを「審査員」と呼びたくはない。完全に主観で点を付けて欲しい。技術がめちゃくちゃあるとわかっても、笑えなければ低得点をつけて欲しい。噛みまくって技術がないと思っても、ボケ一つ一つで爆笑できたなら、高得点をつけて欲しい。なんなら、「なんか気に入らない」ならそれを理由に低得点をつけてしまってもいい。しかし、残念なことに、彼らはどこまでも「審査員」だったのである。
 そして上記の記事にはこうも書いてある。

「最近のM-1は変わってしまった」という声を至る所で耳にする。事実私も去年まではそうくさすクチだったのだが、勘違いしてはいけない。変わってしまったのは私たち、動いているのは太陽ではなくて地球だ。

 そう。確かにますだおかだの優勝、そこから既に「M-1=技術の大会」という審査基準が存在していた。なにせ、大会主催者であり審査委員長である島田紳助が、ますだおかだに投票しているのだ。さらに2008年、NON STYLEに94点をつけた彼は、オードリーには89点をつけているのだ。M-1の総意は「この大会は技術の大会です」ということなのだ。しかし、それは審査員席に座っている彼らの多数決により出た答えであり、彼らの中には「審査員」ではない人間もいた。
 私は、やはり松本人志だけは、「審査員」ではないと思っていた。ますだおかだが優勝した2002年。彼はフットボールアワーに投票していた。フットボールアワーが優勝した2003年。彼は笑い飯に投票していた。両方とも、技術よりも自分の主観を重視した投票だった。しかし、今となっては彼も「審査員」となった。2007年、POISON GIRL BANDに90点をつけたり、2008年、オードリーに最高得点をつけたりはしたが、最終的には審査員らしい「審査」をしている。自らのラジオ「放送室」で「ますだおかだの優勝はおかしい、彼らには技術があるが新しさがない」そう言い切った彼はもういない*2
 でも、まだ「審査」と「主観」の間で揺れている状態なのかもしれない。そう思いたい。
 そのとき、実は大竹まことこそが真の「反・審査」であることに気が付いた。2002年、大竹まことフットボールアワーへ投票していた。2005年。ブラックマヨネーズが優勝する中、彼は笑い飯に投票していた。サンドウィッチマンが優勝した2007年、彼は一人キングコングへ投票していた。そしてNON STYLEが優勝した2008年。彼はオードリーへ投票した。どれもこれも、客観的に見る気なんてない、主観的な基準である。それは素晴らしいことだ。
 そして、パンクブーブーが優勝した2009年。彼は審査員席から姿を消していた。
 島田紳助東京03恫喝事件とが原因だとされているが、果たしてそれだけだろうか? つまらない審査が横行するM-1を、半ば諦観していた結果なのではないだろうか? または、「技術の大会」であるM-1側が出した答えなのではないだろうか? これについてはいくら考えても真実は分からない。 
 今となっては、M-1の「審査」と戦っているのは中田カウスだけになってしまった。彼はアンタッチャブルが優勝した年に一人、南海キャンディーズに投票していた。NON STYLEが優勝した年、大竹まこととともにオードリーへ投票していた。
  でももう無理であろう。審査委員長である島田紳助や、あの中で最も点数を注目されているであろう松本人志が「審査」をしてしまっている。松本人志はまだ揺れているように見えるとはいえ。
 私たちの中にある「理想のM-1」は、終わってしまったのではなく、初めから始まっていなかったのだ。ここでいう「私たち」とは、一部が共通した考えを持つお笑いファン、つまり上記の記事のid:shoshoshoshoさんや、M-1の感想を読んだ限りではid:karatedouさん、、M-1の感想は書いていないようだけどたぶんid:osamu-tedukaさんも、ていうか、お笑いブロガーの方の多くはこの「私たち」に入ってくれると思う。あと、東京ポッド許可局の人たち、ということはたぶん多くの芸人の人たちも。勝手に名前出しといて違ったらごめんなさい。言っていただければ消します。
 で、一個前の採点載せてる記事なんだけど、ごめんなさい、こんなこと書いといて「審査」してます、あれ。客観的に見ようとしてます。つまり、技術点も入れてますって事。最近は「客観的な批評を心がけよう」というスタンスでブログを書いているため、採点もあんな感じに。だから大日本人の記事吉本団体芸の記事も「主観」を出来るだけ排除しているんです。主観のみ、自分的にどのネタが一番おもしろかったか、もう一個見たいと思ったか、で言えば、笑い飯南キャンハライチです。
 わずかな希望としてあるのは、まだ少し揺れている松本人志が、主観側に寄ること、審査員が大幅に変更されること。特に、若い志を持った審査員が入ってくれることを望む。しかし、どれも可能性は低い。もっと大きな希望が、上記の記事の最後に書いてある。

どうやら来年も笑い飯M-1に出場するようだ。コンテストの思想なんて歯牙にもかけないあり方で、ぐうの音もでないもぎたての大爆笑をかっさらい、M-1の思想そのものをぶっつぶした上で本気の一等賞をとってほしい。

 笑い飯が来年優勝すること。そして、それによって、たくさんの優等生たちが、「俺たちがM-1をつまらなくしていた」と気づいてくれること。そして、審査員席の彼らが、「審査」のつまらなさに気づいてくれること。それを願っている。
 最後に、私が書いた去年のM-1評の最後の部分を引用したいと思う。

 しかし、それは「自分の感覚」ではなく「客観的に見ようとしたら」であるため、自分がまったく楽しめなくても高評価しなければならない漫才も出てくるということだ。それは自分に嘘をついていることになる。
 果たしてあの審査員達はNON STYLEの漫才で「笑って」投票したのだろうか?「笑って」はいないけど、「客観的に見ようと」すれば、「自分の感覚じゃないものさしで計れば」NON STYLEが優勝だ、としたのではないのだろうか?
 審査員達は「客観的に見る」ために呼ばれたんじゃない。お笑いとして活躍してきたその感性を買われて、「それぞれの感性で」良いか悪いか判断してもらうために呼ばれたのだ。そうじゃないならそういう審査マシーンでも開発してそれにやらせればいい。
 目の肥えた審査員達は決してあのネタで「笑って」はいないはずだ。おもしろい、技術があると「わかった」だけなのだ。それではいけない。「Don't Think. Feel!」である。
 しかし、今回はそうなった。「笑える漫才」でなく「おもしろいと分かる漫才」が優勝する。それが今のM-1グランプリの姿だ。

 今のM-1グランプリの姿も、いまだにこの通りである。

*1:12/26 15:55 この辺変更。

*2:この辺追記です