id:toroneiのネガコメへの意見。

ギスギスしたのが嫌いな人は読まないほうがいいです。ほんと! 警告したからね!
 向こうから「あなたのブログには今後近づきません」宣言をしてきたのに、その後めっちゃネガコメ付けてきたりしたから、「何でネガコメしてくんの」的なことと攻撃をTwitterに書いたら、「不愉快ならブログ見なきゃいいのに」って書かれてブロックされた。俺は「あなたのブログ見ない」なんて書いてないのに。しかもブログ見てもいないのに。見たのは俺の記事のブコメなのに。で、今回またブクマでネガコメ。そろそろ「なんだこいつ?」ってなったので反論します。
 引用元は↓
http://twitter.com/toronei
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/ncat2/20091224/1261648298

結局お笑いマニア以外は、みんな去年はノンスタ、今年はバンブーが優勝だというのに納得してるんですよ。漫才をメジャーで大衆に売れるコンテンツにするのが、M-1の役割だったんだから、何にも矛盾していない。

 まず「お笑いマニア」と「それ以外」の二元論にしているところが怖い。お笑いマニアにもノンスタ派はいるしそれ以外にもオードリー派はいると考えようよ。
 そこはおいといて、お笑いファン以外が去年のM-1のノンスタ優勝に納得しているという部分。もうここがずれている。M-1終了後、友達と喋る話題として、M-1というのは確実に出てくる訳だが、もう、圧倒的にオードリー派が多かった。そこそこいろんな人から聞いた。で、他にも2chなどの、特にお笑いファンばかりが集まっているわけではないところでも、オードリー派が圧倒的に多かった。てか、その後バラエティで大々的に売れたのがオードリーという時点で、大衆はオードリー支持派が多かった考えるのが妥当だろう。漫才とトークという差はあれどね。
 むしろ、ノンスタを評価している層側には「手数論」とか「技巧派」みたいなのをかじったタイプのお笑いファン、あと単純に天邪鬼、あと審査員と同じ意見にして安心してる人。この辺が多いと。俺はそんな印象だけどね。もちろん、単純にノンスタが一番笑ったって人もたくさんいますよ。うちの父親はナイツって言ってたし。いろいろいるんです。ただ、多いのはオードリーでしたね。
 ちなみにパンブーに関しては妥当だと思ってる。ただ、ここは俺の記事の重要な論点ではない。そこが読めてないんだと思う。パンブーについてとかチンポジについてとか、言及してない。
 あと、「漫才をメジャーで大衆に売れるコンテンツにするのが、M-1の役割だった」っていうのは意味不明。ソースはwikiですが、「単純におもろい奴を決めるコンテストがしたい」が大会スタートの動機だろうに。それとも結果論を元に「矛盾しない」と言っちゃっているというミス?
 さらに、漫才はメジャーで大衆に売れるコンテンツにはなってないと思うよ。メジャーで売れるコンテンツなのは「M-1」であって「漫才」ではない。事実、ゴールデンのバラエティ番組で4分間の漫才なんてめったに見ないでしょう? 上方漫才大賞とかオンエアバトルとか、昔と変わりないでしょう?

NO STYLEの優勝は自分がお笑いファンになってから、最高に嬉しい瞬間だった。あれを汚され続けたことは、永遠に恨みとしてあるんだけど、M-1って元々ますだおかだとかNON STYLEみたいな人たちに陽の目を与えるために、紳助は作ったんだと思うよ。

 ソースはwikiですが、「単純におもろい奴を決めるコンテストがしたい」が大会スタートの動機だろうに。

もうここに代表される意見、オレにとっては言いたいことの意味も良く分からないんだけど、なにこの人たちは、そんなにお笑いとか演芸とか漫才を閉じた世界のものにしたいの?お笑いって大衆文化だぜ。

 で、なぜM-1の審査員が主観で審査しただけで「閉じた世界」になってしまうんだ? 仮に去年の優勝がオードリーで、今年の優勝がハライチとかだったとしよう。で、それでなぜ漫才の世界が閉じることになるんだ? それだとM-1は大きくなっていかないのか?
 M-1がここまで大きくなったのって、物語性、審査員の豪華さ、年末恒例感、この辺だろう。芸人の真剣勝負という格闘技的な雰囲気とか、その辺がおもしろかった。誰が優勝したとか関係なく、M-1は大きくなっていたよ。それどころか、ずっと技術力重視の大会だったら、コアファンみたいな人たちに「M-1の評価のツボ」が知れ渡り、「いかにそのツボを満たしているか」を見る大会になってしまうよ。それこそ漫才が閉ざされているといえる状況だ。てか、現在、実際に「手数論」がある程度知れ渡り、「いかに『手数論』を満たすか」という見方をしている人が多くでてきている。そして、去年今年とその「手数論」通りの結果となっている。この状況が続けば、M-1自体の人気は続くだろうけど、もっと根本的な部分は閉ざされているといえないか?

でもあなた方の『私たちの中にある「理想のM-1」』というものなら、2001年に麒麟は優勝してるし、2002年と2003年は笑い飯が優勝してるだろう。僕たちはM-1の決勝の評価は正しいと思う。

 これに関しては審査員の投票結果とか紳助はどうかとかいろいろ書いて考察したのに読めてないのか、としか。

別にお笑いが先鋭化とか、分かる人にだけ分かるという路線に特化して欲しいと思うのは自由ですよ。ただそれをするのならお名前たちがきちんと大衆に分かる言葉で良さを伝える仕事を変わるか、月10万芸人に投資しろ。といいたい。このままでは笑い飯は10年後芸人やってない可能性あるよ。

 なんか、「M-1=お笑い界」とでも思ってるのだろうか? 例えば「私たち」が「レッドカーペット終われ、エンタ終われ、1分ネタ芸人滅びろ、ゴッドタンとかガキの使いをゴールデンで一時間やれ」って主張してるなら「お笑いが先鋭化とか、分かる人にだけ分かるという路線に特化して欲しいと思」ってると受け取ってかまわないよ。でも、「私たち」が言っているのは、「M-1には『単純におもろい奴を決めるコンテスト』であって欲しい」ってことだよ? そしてその「単純におもろい奴」ってのを審査員の主観、好みで選んで欲しいってことだよ? しかも、「主観入りまくり」と前置きした上でね。
 しかも、さっきも書いたようにM-1が大きくなることと審査員が主観で採点することとはたいした相関関係にない。
 こんな感じかなあ。意外とギスギスせずに「M-1、漫才、お笑い論」として読めなくはない内容にはなったかなあ、と思います。では。メリークリスマス!