「無意味な批評」 が横行しすぎている現在へ警告。年も明けたしいろいろ語る。

 M−1を経て、いろいろな感想や批評や争いを見た。で、そこでやっぱり思ったのは、無意味な感想や批評が多すぎるということ。ここで言った「無意味」とは、「僕はこう思った」に対して「私も! だよねだよね!」となることを目的としている感想と批評や、単なる天邪鬼の奇を衒っただけの文章、また、優勝予想などの「予想が当たるかどうかを楽しむ、当たったときに『すごいだろ?』ってする」みたいなことを目的とした文章、など。これは厳密に言えばエンタメとして成立していて、無意味なんかじゃないんですが*1、今からする「意味があるもの」の定義に反するということです。
 で、その意味のあるものというのは、「新しい視点や深い思考に基づく作品の鑑賞の仕方を、見いだせるもの」。批評ならば、やはりこれを提示していかないとダメだと思う。さらに言うならば、そこに「そのジャンルの可能性を広げる視点を与える」ものだとさらにいい。
 ここで無意味という言葉を使ったのはわざとであって、私は例えばM−1の予想というものを楽しく見ているが、それでも私は無意味という言葉を使いたい。今現在、無意味な感想や批評というのが山ほどあり、さらにそれらは批判されることはほとんどない。そのため、この辺りで少し、それらに対して釘を刺しておくことで、バランスを取りたいと思っているのだ。
 ただの感想を書いて共感だけを求める文章や、根拠不十分な目的と対処のための文章*2、予想を批評と名づけて過去の財産から予測をするだけの文章。もちろんそれがあることに何の不満もない。しかし、そればかりが溢れ、新たな見方と知性を追求しようという心意気、新たな可能性を見出そうとする意思、それらが見える文章が少なすぎることについては、首を傾けざるをえない。
 私が『私たちの中にある「理想のM-1」は、終わってしまったのだろうか?』からの二部作のM−1感想文を書いたのには、そういったところへの思いがある。あの二つの文章の、「私たち」と「僕たち」が戦うことには、もう、何の意味もない。そこの争いに固執し、どちらが正しいか、なんて争っても、何も生まれない。だからもうそれはやめよう。
 さらにもっと言えば、あの二つの文章それぞれは、無意味だ。「私たち」同士が「だよねだよね!」とやるというだけのエンタメをしたいのならば書けばいいが、そうじゃないなら書かないべきだ。では私はなぜあの文章を書いたのか。
 あの感想文を二つ書くという行為には、意図がある。それは、一人で二つの主張をさも正しいかのように主張することで、「これを片方だけが正しいと思うのは、ちゃんちゃらおかしい」ということを浮き彫りにすることだ。あの二つの主張は、両方が正しくて両方が間違っているのだ。そこをきっちり整理して欲しい。そして、「私たちの理想のM−1」と「僕たちの理想のM−1」の両方の正しさを見据えた上で、新しい視点を見つけ、深い考察をしたとき、それは初めて正しいM−1批評となりえるのだ。
 そういう意味で、あの二部作は意味のあるものだ*3。「新しい視点や深い思考に基づく『感想や批評』の鑑賞の仕方を、見いだせるもの」であるからだ。批評を二つ書くことによって、批評を批評しているという形になる。
 じゃあお前は正しいM−1批評をしてるのかって話になると、まあ、微妙。してることにはしてるが、そこまで深くて新しいことは書いてないよ、って感じです。M−1採点記事の南海キャンディーズの考察がそれなんですが。
 繰り返しになるが、ここで定義した「意味のある文章」以外無くなれとか言ってるわけでは全くない。これはあくまで「批評として」という言葉が頭に付いたうえでの「意味」であり、さらにこれに当てはまらなくてもエンタメとして機能しており、エンタメとしては「意味」がある。さらに、生の現場の空気を伝えてくれたり、マイナーなところをたくさん発掘してきたりするといった行動には、非常に価値があると思っている。
 この、「意味がある」ものじゃないと要らないかどうか、という問題での争いも、上記の「僕たち」と「私たち」との争いと同じく、何も生まれない。
 と、いうわけで、感想を書く人も、的を決めて戦う人も、批評をする人も、現場にもぐりこむ人も、テレビの紹介をする人も、歴史を辿る人も、この辺のことを頭に入れた上でやって欲しいな、と思う次第でした。

*1:または全てのものが無意味かどちらか

*2:これが一番たちが悪いのですが

*3:自分で「意味」を定義してるんだから当然だけど