ラーメンズは純粋な「お笑い」ではない

殺人(笑)時代 ラーメンズが笑えない理由


 ラーメンズをおもしろくないと思う人はたくさんいるようだ。私もその中の一人である。それについてはこの記事でも触れている。
 さて、ラーメンズはおもしろくないと思う、と述べたが、正確に言うと少し違う。ラーメンズは「お笑いとしては」おもしろくないと思う、がより正確だ。たとえば舞台だとかそういったものとしてはおもしろいのかもしれない(でもそれだったら大人計画とかヨーロッパ企画とか、それかもっとマイナーなのでいいのはあるだろうと思う)。
 それを説明するのに、冒頭でリンクした記事から飛べる2chのスレッドのまとめに書いてあったレスを引用する。

61 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/01/26(月) 16:11:33.47 ID:6yHpXRN3O

複線があってオチまでにちゃんと回収するからなんかおぉ〜ってなるよな

笑いってかなんかおぉ〜ってなる

 ここにラーメンズがいかにお笑いじゃないかが、如実に現れている。「伏線とその回収っていう映画とかによくある手法をお笑いに取り入れただけでお笑いじゃないってこと?」と思った人もいるかもしれないが、そういうわけではない。そもそも、伏線とその回収という手法はもともとお笑いにあるものである。その代表例が「テンドン」と後半に効いてくる「フリ」である。そして映画などでのそれとお笑いでのそれの決定的な違いは、それが「笑いを起こすために使われるか」である。映画では驚きや感動のために使われる。お笑いでは笑いを起こすために用いられる。と、ここまで書けば分かるだろうが、ラーメンズの場合、その手法が「驚きや感動のために使われる」ことが非常に多いのである!
 これは、笑いよりも驚きなどを優先することが多々あるということだ。これが純粋なお笑いといえるだろうか?
 そして冒頭でリンクしたブログではラーメンズが一部におもしろくないといわれている理由について、

ラーメンズのコントが客を選ぶ理由。それは、小林賢太郎にあるのではないだろうか。ラーオタな人たちは知っていると思うが、小林という芸人は、とてつもないナルシストである。そのことは、ラーメンズのネタ本のタイトルを『小林賢太郎 戯曲集』にしていることや、彼のソロコントライブPotsunen』の演出がやたらとカッコイイことから、容易に想像できる。ラーメンズの舞台には、そんな小林のナルシストな表現がさりげなく散りばめられており、それを無意識に感じ取ってしまった人たちが、彼らの笑いを理解できないと言っているのではないだろうか、と僕は考えるわけである。

 と分析している。しかし、私は誤りであると思う。
 ナルシズムというのはネタ本を「戯曲集」などと名づけたり演出をおしゃれにするようなことだけをさすのではない。ナルシズムにはさまざまな形がある。たとえば、松本人志が一人ごっつにて「24時間大喜利」をやったのも尊大なナルシズムからくるものであり(小林賢太郎よりも大きいとさえ思われる)、千原ジュニアの昔のとんがったコントなどもそうである。しかし、ラーメンズをおもしろくないという人でそれらの作品を評価している人は相当数いる。これはなぜかというと、やっぱりそれはラーメンズ小林賢太郎)が純粋な「お笑い」ではないからに尽きるだろう。
 すなわち、松本人志千原ジュニアが「お笑い」に対してありったけのナルシズムを向けていたのに対して小林賢太郎は「舞台」「演劇」「芸術」のような方向へナルシズムを発揮してしまっているのだ
 ラーメンズをおもしろくないという人たちが「お笑いへのナルシズム」には拒否反応を示さないということは、「ナルシズム」を拒否しているのではなくナルシズムの向けられている方向、つまり「舞台、演劇、芸術」のような、サブカル的、アート的、通ぶってるやつ的なものに拒否反応を示しているという可能性を示唆している*1。事実私はそうだ。そしてナルシズムが「舞台、演劇、芸術」に向いたとき、そこにもともとあるはずだった笑いが薄まるのは至極当然のことである。
 では逆になぜそんなにラーメンズがもてはやされるかについて考えてみよう。
 その大きな要因として「ある種のオリジナリティ」があげられる。それは、たとえば舞台を白と黒だけでスタイリッシュに構成したり、ストーリーを重視したような作品があったりといった部分だ。これは確かにオリジナリティであるといえなくもないのだが、わざわざ「ある種」とつけたのには理由がある。それは個性的なのはあくまでお笑いの世界の中で見たときだけであって、舞台や演劇を含めてみると新しくともなんともないからだ。お笑いにもなりきれず舞台演劇にもなりきれない中途半端な立ち位置である。
 しかし、それをオリジナリティととることも出来なくはない。宗教というものは一度信じ始めたらそこからかなり深く信じるのは簡単らしい。一度「あれ?おしゃれ?」と思ったら「お笑いにしては笑えず、舞台演劇にしては物語性や深みに欠ける」中途半端なものが「お笑いにしては物語性や深みがあり、舞台演劇にしては笑える」という風に信じることも出来るのだろう。そのような唯一無二性が人気の一つの秘訣といえるだろう。
 そしてもう一つ大きく上げられるのはこの記事(「聖☆おにいさん」を面白いって言いたくない相沢が選ぶマンガアワード2008)で問題提起されている空気感である。もやっとした感覚をある程度いいえていたと思うので、こちらに引用しておく。「聖☆おじさん」をすべて「ラーメンズ」に置き換えて読んでいただきたい。

聖☆おにいさん」が嫌いだというわけではなく、だから作者にもマンガにも罪はないが、「聖☆おにいさん」をとりまく空気が嫌いだ。それは「聖☆おにいさん」がものすごく売れているっていう事実とか、「聖☆おにいさん」を好きだって言いそうな人の顔とか、そういうのを全てひっくるめて「『聖☆おにいさん』が面白いマンガとされている空気」がものすごく嫌だ。

 そこら辺の感覚は言葉にすると非常に伝わりにくいものなので難しいんだけど、あなたには分かってほしいと思う。「聖☆おにいさん」が面白いかどうかは置いておいて、「聖☆おにいさん」を面白いって言わないと「分かってないヤツ」のレッテルを貼られそうなこの気持ち悪いヴィレッジ・ヴァンガード的な空気が嫌なんだってことなんだけど、こんな気持ちを誰が理解してくれるというのか? あと理解してもらったからって誰が得をするというのか? そしてその気持ちはただの被害妄想なんじゃないのか? とにかく結論としては、知り合いに「ねえ、聖☆おにいさんって知ってる? あれ面白いよねえ!」と、イエス以外の答えをまったく想定しようとしない全力の笑顔で言われたら、自分にしか分からない苦笑いを作って「あー、知ってる知ってる。面白いよねえ」って言う自分でありたいと思っています。

 うん、こんな感じ。これも人気の一つの理由。ただ、一つ違うのはラーメンズの場合、「『聖☆おにいさん』が嫌いだというわけではなく、だから作者にもマンガにも罪はないが」という部分が少し当てはまらない。なぜなら小林賢太郎はスタイリッシュにしてみたり、舞台で閉鎖的にして近い距離感を演出したり、テレビへの出演を控えたりと、わざと「通ぶってる分かってないやつ」を食い物にしようとしている節があるからだ。もちろんこれらのことは小林賢太郎なりの美学からくるものでもあるのだろうが。
 すなわち、ラーメンズというグループは、お笑いと舞台演劇の中間に位置する、どちらにも振り切れていない中途半端なグループである。

*1:もちろん舞台、演劇、芸術批判ではない。むしろヨーロッパ企画原作の「サマータイムマシンブルース」などは私も好きだ。