「笑いのレベル」の正体と、相対主義
以前、「レベルの高い笑い」鑑賞講座。お笑い観を変える2つのポイントという記事で、いわゆる「レベルの高い」お笑いの鑑賞方法という物について触れた。そして今回はそれと近いが違う話、「レベルの高い『お笑いそのもの』」について考えていこうと思う。
まずは例を出す。松本人志、山崎邦正の二人が大喜利をしている。そういう状況とする。まず、松本のほうがいわゆる「発想の転換」的な答えを出す。すると、スタッフにはウケたが、客にはいまいちだった。次に、山崎邦正が「言葉遊び」的な答えを出す。すると、山崎邦正の答えのほうが客にウケたが、逆にスタッフにはいまいちだった。それを見た松本は、「客に合わせた答えを出す」と宣言し、「言葉遊び」的な答えを出す。すると、先ほどよりも客にウケたとする。そして、逆に山崎邦正はスタッフに合わせたボケを出そうとしたが、イマイチウケなかったとする。
つまり、こういう図になる
発想の転換 言葉遊び
松本 ○ ○
山崎 × ○
スタッフウケ 客ウケ
このとき、「言葉遊び」よりも「発想の転換」のほうがレベルの高い笑いだと言えるか、というところが最初の問題である。つまり、「発想の転換よりも言葉遊びは下にあるため、発想の転換ができるということは言葉遊びもできる」と、言えるのか、ということだ。その答えを出すには、もう一つ補助線を引くと分かりやすい。
ここに、例えば、ココリコの田中がいたとする。そして田中は、発想の転換ボケは出してスタッフにはウケたが、言葉遊びは出せずに客にはウケなかったとする。すると図はこうなる。
発想の転換 言葉遊び
松本 ○ ○
山崎 × ○
田中 ○ ×
スタッフウケ 客ウケ
こうしてみると、発想の転換が言葉遊びよりも上にあるわけではないとわかる。発想の転換が上にあるのなら、発想の転換ができた田中が言葉遊びができなかった説明がつかないからだ。つまり、上下の関係にはなく、ベクトルが違うのである。この図で言えるのは、松本が、山崎や田中よりも笑いのマーケティング能力が高いということだ。つまり、パターンを分析し、それをアウトプットする能力が……と思いきや、例えばこうなってみるとどうか。
発想の転換 言葉遊び ナンセンス
松本 ○ ○ ×
山崎 × ○ ○
田中 ○ × ○
スタッフウケ 客ウケ バランス
このような形になったとき、もう全く三人に上下はつけられない。得手不得手としか言いようがなくなる。それだけでなく、「言葉遊び」というジャンルですら、「韻を踏む」「イントネーションを変える」「音読みを訓読みに」「部首を変える」「回文」などなど、いくらでも細分化できる。その中で、また得手不得手が出てくるのだ。そうなってくるともう上下なんて付けようがなくなる。
こう考えていくと、笑いにレベルなんて付けようがないのである。いくらでもジャンルは細分化できるし、誰かにとって有利にも不利にもできる。絶対的なものはなく、相対的なものしかないという、いわば相対主義の壁と言えよう。この相対主義の壁は、なにかしらについて評論じみたことをしていると、必ずぶつかる壁である。
その壁にぶつかった後にその壁を無視し、またきびすを返してレベル云々上下云々の話をする人もいる。そして、そういった人は、壁の越え方に迷っている人を見ると、「あー、俺もそこで迷っていた記憶あるわ」と言ったりもする。しかし、それは壁を越え、解決した人の意見ではなく、壁を無視したのが「昔である」というところでの、優越感からくる意見であることが多いため、非常に無意味なものである。昔、自分も同じことを考えた、ということで、下級とみなす。昔よりも自分が退化した可能性が見えていないのだ。
相対主義の壁にぶつかったときは、無視するのではなく、越える必要があるのである。つまりは、実感として、目測として確かに感じでいる「この笑いすげえレベルたけえ!」と言う感覚や、笑いの歴史、それらを理屈に落とし込み、目測をものさしへ変え、更にそのものさしの目盛りをできるだけ細かくしていく作業が必要なのだ。