大喜利での「わざとわかりにくく表現する技法」とマーケティング

 テレビやDVD、またはインターネットなどでは、しばしばシンプルに大喜利での対決というものが行われている。それだけでなく、大喜利というのは非常に応用の利くコンテンツであって、例えばラジオのコーナー、雑誌の読者投稿コーナーなどなど、「大喜利」と名を冠していないものでも、底を除いてみれば大喜利であるものも多い。
 そのように、コンテンツとしてメジャーになっていくと、技法というものが現れてくる。そして、大喜利で有名な技法に、わざとわかりにくく表現する技法がある。今回は、それについて考察していきたいと思う。
 まず、その技法とは、どのようなものなのか、について解説していきたい。わかりやすく例を出す。お題として「あったら嫌な寿司屋」というものが出されていたとする。そして、それに対して「寿司ネタの下に入っているわさびが、緑の絵の具になっている」という発想の答えを出したいとする。
 そうしてみると、まず表現として一番単純なのは上の鍵カッコの中を直接書いてしまう表現だ。

寿司ネタの下に入っているわさびが、緑の絵の具になっている

 これが一番シンプルな形。
 では、実際に上述の技法を使ってみると、どのような形になるか。

食べると緑の絵の具の味がする

 まずあるのはこんな形であろう。「わさびが」というところを省きわかりにくくすることで、「絵の具の味がするということは?」という具合に想像させる書き方。
 もっとわかりにくくすると、このような具合だ。

赤の絵の具というよりは緑の絵の具の味

 これは「食べる」という言葉すら省き、「味」という言葉だけでで食べるんだな、と言うことを想像させようとしている答えだ。さらに、赤の絵の具との味の違いを判別できる、という前提を持ち込むことで情報量を増やしている。
 さらに、ここからさらにわかりにくくするとこうなる。

「美味い!」の笑顔で爽やかな緑の歯が覗く

 これは「絵の具」と言うことすら省き、「緑の歯」と書くことで想像させるパターン。これまでの流れがあるから分かるが、実際ここまでわかりにくくなるとお題に対していきなりこれを出されても分からないであろう。更に分かりにくくしようと思えばできるのだが、次はこれまでとは少しベクトルをずらして分かりにくくするパターンを二つまとめて紹介する。

お子さんは緑絵の具抜きの寿司にしましょうか、と言われる
厨房に、からしチューブ、にんにくチューブ、緑の絵の具チューブが並んでいる

 これは「サビ抜き」を「緑絵の具抜き」と表現することで「わさびが緑の絵の具になっている」と表現するパターンと、他のチューブと並べることで、わさびの代わりであると表現するパターン。


 このように、同じ発想のボケであっても、表現方法はいくらでもあり、分かりにくくしようと思えばいくらでもできる。
 このような状況であるため、よく表れてくる問題が「同じ発想で分かりにくくする必要はあるの?」という問題、そして、「仮に必要があるなら、どこまで分かりにくくするのがいいの?」という問題だ。前者の問題に関しては、分かりにくくすることで言葉一つに乗る情報の量が増え、それによってスマートに大きく想像させることができるため、ある種の効果はあるであろうから、おもしろさを追求するという前提では必要である、と考えることができるが、厄介なのは後者の問題だ。
 これは経験上、多くの大喜利の場面で表れている問題である。インターネットの大喜利のコミュニティ、特に採点形式をとっているコミュニティに多く表れている。例えば、投稿者が表現を凝り、わかりにくくした結果、採点者に意図が伝わらず、低得点をつけられてしまった、というような状況。このとき、採点者が「そのぐらい意図を拾えよ、これはおもしろい答えだぞ」とバッシングされたりする。しかし、投稿者が表現を凝りすぎ、分かりにくくしすぎたとき、採点者が拾えなくても、むしろ投稿者が「それはやりすぎ、おもしろい答えと自己満は違う」とバッシングされていたりする。
 となってくると、「表現を凝るとおもしろくなるのでやるべきだが、やりすぎると自己満」ということになり、「じゃあ、その丁度良いとこってどこだよ! 『おもしろい答え』ってなんだよ! 」ということにもなってくる。難しい問題だ。
 しかし、この問題は「答えはマーケティングである」と考えると非常にスッキリして分かりやすくなる。
 つまり、「丁度良いとこ」、「おもしろい答え」というものがあるのではない! と考え、大喜利コミュニティの場合、「採点者*1のうち何人は、ここまで表現を凝ると拾ってくれなくなる」とか「採点者はのうち何人は、ここまで表現を凝ると非常に高得点をつけてくれる*2」ということを分析し、マーケティングし、一番効率が良いところを狙い撃ちする。需要供給曲線のように、丁度グラフが交わるところまでで表現を凝るのを止める、このマーケティング合戦が大喜利である、と考えるのだ。
 このように、大喜利に限らず、「ホントウの○○はなんだ?」みたいな問題がある場において、「マーケティング」というものを出していくだけで、非常に分かりやすくなるということは多々ある。例えば「レベルの高い音楽ってなんだ? 売れている大衆音楽とは違う、音楽通にしか分からない良さがあるじゃないか」という問題に対しては、「それは『レベルの高い音楽』ではなく、音楽をたくさん聴いている層、評論化筋に対して良く思われるためのマーケティングに過ぎない」と考えると分かりやすくなる。
 と、大喜利の話から大きな方向へ話が転がっていったので、そろそろこの辺りで終わろうと思う。

*1:テレビならば客や審査員、出演者などになる

*2:テレビならばたくさん笑ってくれる、など

「笑いのレベル」の正体と、相対主義

 以前、「レベルの高い笑い」鑑賞講座。お笑い観を変える2つのポイントという記事で、いわゆる「レベルの高い」お笑いの鑑賞方法という物について触れた。そして今回はそれと近いが違う話、「レベルの高い『お笑いそのもの』」について考えていこうと思う。
 まずは例を出す。松本人志山崎邦正の二人が大喜利をしている。そういう状況とする。まず、松本のほうがいわゆる「発想の転換」的な答えを出す。すると、スタッフにはウケたが、客にはいまいちだった。次に、山崎邦正が「言葉遊び」的な答えを出す。すると、山崎邦正の答えのほうが客にウケたが、逆にスタッフにはいまいちだった。それを見た松本は、「客に合わせた答えを出す」と宣言し、「言葉遊び」的な答えを出す。すると、先ほどよりも客にウケたとする。そして、逆に山崎邦正はスタッフに合わせたボケを出そうとしたが、イマイチウケなかったとする。
 つまり、こういう図になる

   発想の転換  言葉遊び
松本   ○      ○
山崎   ×      ○
   スタッフウケ  客ウケ

 このとき、「言葉遊び」よりも「発想の転換」のほうがレベルの高い笑いだと言えるか、というところが最初の問題である。つまり、「発想の転換よりも言葉遊びは下にあるため、発想の転換ができるということは言葉遊びもできる」と、言えるのか、ということだ。その答えを出すには、もう一つ補助線を引くと分かりやすい。
 ここに、例えば、ココリコの田中がいたとする。そして田中は、発想の転換ボケは出してスタッフにはウケたが、言葉遊びは出せずに客にはウケなかったとする。すると図はこうなる。

   発想の転換  言葉遊び
松本   ○      ○
山崎   ×      ○
田中   ○      ×
   スタッフウケ  客ウケ

 こうしてみると、発想の転換が言葉遊びよりも上にあるわけではないとわかる。発想の転換が上にあるのなら、発想の転換ができた田中が言葉遊びができなかった説明がつかないからだ。つまり、上下の関係にはなく、ベクトルが違うのである。この図で言えるのは、松本が、山崎や田中よりも笑いのマーケティング能力が高いということだ。つまり、パターンを分析し、それをアウトプットする能力が……と思いきや、例えばこうなってみるとどうか。

   発想の転換  言葉遊び ナンセンス
松本   ○      ○     ×
山崎   ×      ○     ○
田中   ○      ×     ○
   スタッフウケ  客ウケ  バランス

 このような形になったとき、もう全く三人に上下はつけられない。得手不得手としか言いようがなくなる。それだけでなく、「言葉遊び」というジャンルですら、「韻を踏む」「イントネーションを変える」「音読みを訓読みに」「部首を変える」「回文」などなど、いくらでも細分化できる。その中で、また得手不得手が出てくるのだ。そうなってくるともう上下なんて付けようがなくなる。
 こう考えていくと、笑いにレベルなんて付けようがないのである。いくらでもジャンルは細分化できるし、誰かにとって有利にも不利にもできる。絶対的なものはなく、相対的なものしかないという、いわば相対主義の壁と言えよう。この相対主義の壁は、なにかしらについて評論じみたことをしていると、必ずぶつかる壁である。
 その壁にぶつかった後にその壁を無視し、またきびすを返してレベル云々上下云々の話をする人もいる。そして、そういった人は、壁の越え方に迷っている人を見ると、「あー、俺もそこで迷っていた記憶あるわ」と言ったりもする。しかし、それは壁を越え、解決した人の意見ではなく、壁を無視したのが「昔である」というところでの、優越感からくる意見であることが多いため、非常に無意味なものである。昔、自分も同じことを考えた、ということで、下級とみなす。昔よりも自分が退化した可能性が見えていないのだ。
 相対主義の壁にぶつかったときは、無視するのではなく、越える必要があるのである。つまりは、実感として、目測として確かに感じでいる「この笑いすげえレベルたけえ!」と言う感覚や、笑いの歴史、それらを理屈に落とし込み、目測をものさしへ変え、更にそのものさしの目盛りをできるだけ細かくしていく作業が必要なのだ。

紳助に学ぶ、東大合格の19分の1の勉強量で年収5億を稼ぐ方法

 東京大学に合格するための必要単語量は、世界史と化学を選択した場合、英語単語の7000、世界史単語の7000、化学単語の5000の、合計19000個くらいであるといわれている*1。それを会得するためには膨大な勉強が必要だ。東大合格者の夏休みの平均勉強時間は1日8時間だそうだ。
 そして、東大を卒業後、いったいどのくらいの収入が得られるのか。それを調べてみると、平均850万くらいだそうだ。サラリーマンの平均年収が430万くらいであることを考えると、ほぼ2倍というすごい数字だ。さらに、40代になれば平均1000万を超えるという。
 しかし、これは本当に努力の対価として相応だろうか? 1日8時間勉強し、年収はたったの2倍。研究職に就く人ではない限り、その8時間の勉強というのは「金のための勉強」ほかならない。プライドのため、やりたいことのため、などもあるのだろうが、基本は金のための勉強だ。しかし、もっとうまくやる方法は無いのだろうか?
 そこである記事の一部を引用したいと思う。

*1:適当にネットで調べた結果。

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シュールとはなにか? 本当にシュルレアリスムとは異なるのか?

 お笑い語りでよく使われる言葉に「シュール」がある。その語源は芸術用語の「シュルレアリスム」であるが、今となっては語源とは違う意味で使われている。まずは、そのあたりをWikipediaの「シュルレアリスム」の項目を参考に解説する。シュルレアリスムは超現実主義という意味である。そしてその超現実とは「現実を超越した非現実」という意味ではなく、「過剰なまでに現実」というような意味である。それに対して「シュール」は、「やや難解でアーティスティックである」「常識を外れて奇妙である」「既存の状態を超越している」「少し変な」というくらいの意味で使われることが多い*1
 と、この、シュールとシュルレアリスムは語源で繋がっているが、実は違う意味で使われている、というところまでは知っていた人も多いのではないかと思う。では、シュールとは何か、というところを探ってみたいと思う。
 まず、『写実と「シュール」 - eigokunの手記 - subtech』という記事を参考にしたい。マンガと絡めてお笑いを論じているのだが、お笑いの部分のみを資料として抽出したいと思う。

*1:そしてここでは、「シュール」という言葉を、「使われることが多い」意味で使っていくこととする。

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お笑い自然主義とお笑いロマン主義の融合

「おぎやはぎ」とは何者か | サンキュータツオ教授の優雅な生活
 上記の記事は、おぎやはぎを絶賛している記事であり、おぎやはぎのラジオを毎週聴いていて、過去放送分もすべてインターネットの力で聞いた私としては、非常に同意でき、また、非常に内容も面白い記事なのだが、その中で軽く触れられている、「お笑い自然主義」と「お笑いロマン主義」という分け方、これが非常に汎用性がある分け方であり、今回はそれを用いてひとつ論じてみたいと思うので、まずはそれを引用しようと思う。

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バナナマン日村の演技が、なぜ役者の演技をも上回るのか

 以前、「笑う女優」という、「芸人のコントをドラマ化する」という番組が放送された。その中で、バナナマンのコントが日村主演、その他の役はほとんど役者というキャスティングでドラマ化された。そのとき、バナナマン日村の演技は、「ある一点で」他の役者を圧倒していた。
 それだけではない。普段のコントや、ゴッドタンでの企画「ヒム子」などのとき、バナナマン日村の演技というのは、「ある一点で」他の芸人の追随を許さないところがある*1
 では、そのある一点とは、いったい何か。

*1:バナナマン設楽の方が全体的には器用だが。

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