有吉弘行、バナナマン設楽の「テレビ批評芸」と「バラエティのプロレス」

 有吉弘行バナナマン設楽にはある共通した芸がある。それが「テレビ批評芸」だ。
 これは、「お笑いのプロからみた、お笑いにおける隠されたところ」や「見えているけど無いことにされているところ」などをテレビで言い、笑いをとるという手法だ。
 例えば、あるコンビに「喧嘩をして、その後決まったオチをつける」という決まった芸があったとする。番組で他の芸人がその「喧嘩の芸」が始まるような「フリ」を行ったとき、「あ、ケンカのくだりやるんですか?」などと言い、本来隠されているべき「決まった芸があること」「それをするために他の芸人によって『フリ』が行われたこと」という二つを日の目の元に晒し、それによって笑いを取る。これが「テレビ批評芸」だ。裏に隠されたパターン(プロレス)をバラすのだ。ちなみにこれは、有吉がダチョウ倶楽部の団体芸である「ケンカ」が始まりそうなときに行ったことだ。
 そもそも、「批評芸」というものが始まったのはこれが最初ではなく、例えば過去にビートたけしが「ドラマのベタ」を批評して芸としていたことがある。リンク先に例がある。そしてたぶん他にも、何かを「批評して笑いにする」という例はいくつかあるであろう。
 しかし、その中でなぜ私は今回の有吉弘行バナナマン設楽の「テレビ批評芸」を取り上げたのかというと、それが「批評芸」の中でとりわけ異質だからだ。では、どこが異質か? ということになる。それは「批評しているのが『お笑い』である」というところだ。「お笑い」の手法で「お笑い」を批評しているのだ*1
 ここで特筆すべきは、「批評芸」は、その批評を聞いて、客が納得することで笑いが生まれるということだ。「その批評的外れだろ」と思われたら笑いは生まれない。すなわち、客は「裏に隠されたパターン」を完全に認識しており、さらに、それを批評することに「納得」しているのだ。これはかなり重要なことである。
 これが意味することは、今の客は、現在のお笑いかなりの割合で使われている「裏のパターン」、すなわち「バラエティのプロレス」に対して、存在がバレているどころか、飽きている部分があるということだ。
 すなわち、現在「バラエティ」の流れは、「プロレス」よりも「ガチ」を求め始めている。それが現在のバラエティの進化の流れなのだ。そして嗅覚の強い芸人はそれを察知しており、飽きられている「プロレス」が始まりそうなときにそれを潰す。それによって客は「よくやってくれた!」と、笑う。
 すなわち、現在のバラエティにおいて追求すべくは「ガチの可能性」であるといえるだろう。
 ここで取り上げたいのは「ロンドンハーツ」だ。ロンドンハーツは、私が考えるに、地上波の全ての番組の中で屈指の「優秀なスタッフ(作家)」がいる番組である。キャストを揃えようが揃えまいが、常に斬新でおもしろい企画を作り上げている数少ない番組の一つだ。
 そしてそのロンドンハーツは、近年、「ガチ」志向である。
 そもそもロンドンハーツは「ドッキリ」を中心とした番組であったが、それは徐々に薄れていった。しかし、近年また「ドッキリ」の可能性を模索し始めた。ただドッキリをするだけでなく、ドッキリのクオリティを上げるように努力したり、斬新な形を探したりと、ドッキリに対してとても意欲的だ。これは「ガチ」が求められているという、現在のバラエティの流れを読めているから他ならない。そしてそれゆえに、超がつくほど高いクオリティのドッキリを、いくつも生み出すことに成功している。さらに、それは多くの賞賛と話題を生んでいることが、やっていることが正しいことを証明している。狩野英孝へのドッキリがその好例だ。
 この流れに気がついている先駆者たちを賞賛すると共に、多くの創作者たちが「ガチ」の可能性を模索してくれることを祈りたいと思う。

*1:「お笑い」が、自己批評ができているということは、喜ぶべきことだ。